たという次第なんでしてね」
と言いながら、兵馬の胸に伏せた面を上げて、まださめきらないほろ酔いの足どり危なく、二足三足歩き出しました。
「歩けるか。では、家まで送って上げよう」
「いいえ、それには及びません、ほかの方ならばとにかく、あなたには中房の道中で、立派に捨てられたんです、これでも、まだ捨てられた人のお情けに縋って、生きようとは思いません」
 女はまた二足三足、ふらふらと歩き出す。兵馬は、それを見ていると、女は急にふり返って言う、
「ねえ、あなた」
「何だ」
「一度、わたしを招《よ》んで頂戴な、あなたのような薄情な方にも、商売だから、わたし、いくらでも招ばれて上げるわ……」
という途端に、一方に於て意外な物音が起りました。

         六十六

 それは何者とも知れないが、二人がこうして話している間、つい、後ろの高札場の石垣の蔭に、隠れていた者が一人あったのです。
 この隠れていた奴は、どうも、二人か、或いは二人のうちの一人を狙《ねら》って、危害を加えようとしていたものではなく、むしろ二人のいることを怖れて、早く事件の解決がつけばいい、その解決がついて、二人がここを立退いた後に、自分の身を処決しようがために、息をこらして、ここに潜んでいたものと見えました。
 ところが、この女の酔いの醒《さ》めることが容易ではなく、この酔いのうちの管《くだ》があんまり長いのに、介抱する若いさむらいもかなり親切に、酔いのさめるのを待ってやっている。酔いがようやく少しばかりさめかかってから、また後の痴話が相当に長い。そうして、女は、何か男に恨みのようなことを言って、そのしどろもどろの足どりで、あなたのお世話にはならない、自分ひとりで行く、なんぞと思わせぶりをしている。そんな手管《てくだ》や、思わせぶりも、御当人同士のお安くない間だけのことなら、御勝手だが、後ろに隠れて、早く自分の身の振り方をつけようと焦《あせ》っている者の身になっては、こらえられない。
 そこで、今、堪《こら》え兼ねて、石垣の後ろからけたたましい音を立てて飛び出したのは、無論、二人を威嚇するためではなく、そのまま一目散《いちもくさん》に、はばたきのけたたましい音を続けながら、二人の間を割って、あらぬ方へと逃げ出して行くのです。
 それが二人を驚かしたことは無論です。女の方の思わせぶりの所作《しょさ》も、それで立ちすくみになったが、兵馬としては、驚いて狼狽《ろうばい》するのみではいられません、直ちにこの怪しい奴を引捕えてみなければならぬ必要に迫られました。そこで、
「待て!」
と、自分も宙を飛んで、それに追い縋《すが》ったものです。
「お赦《ゆる》し下さい、怪しいものではござりませんで」
「怪しいものでなければ、なぜ逃げる」
「意気地の無い人間でございますから逃げやんした、おゆるし」
「赦すも赦さんもない、お前が怪しいものでさえなければ、逃げる必要もないのだ、こちらも、お前が逃げさえせねば捕えはせぬのだ」
 兵馬は瞬く間に追いついて、この怪しいものを膝の下にねじ伏せて動かすまいとしたが、同時に気のついたのは、こいつがグショ濡れであることです。
「おゆるし下さい」
「いったい、お前は何者だ」
「私は屑屋でございます」
「屑屋?」
「はい、紙屑買いでございます」
「紙屑買い――商売とはいえ、時刻が早過ぎる、それにお前の身体《からだ》はぐしょ濡れだな」
「ちょっと、早出する用事がございまして、これへ通りかかりますると、あなた様方が、ここにお見えでございましたから、避《よ》けようとして溝《どぶ》へ落ちましたので、遠慮を致して隠れておりました」
「そんなに遠慮することはあるまいに」
と言いながら、兵馬は篤《とく》と見ると、頭から着物そっくりぐしょ濡れになってはいるが、御膳籠《ごぜんかご》は放さない。どう見ても、紙屑買い以外の何者であるとも思われません。なるほど、早立ちをしてここへ来ると、吾々の物言いを見て、物蔭に避けていたのが、痴話が長いので、堪え兼ねて飛び出したのかも知らん。そうだと思えば、そうも受取れる。それにしても、怪しいといえば怪しいとも思われる。
 そこで、兵馬は抑えながら、懐中へ手を当ててみて、
「何も持っておらんな」
「この通り、仕入れの財布だけでございます」
「そうか」
 憮然《ぶぜん》として、兵馬も、この者を放ちやるほかはないと決めた時、一方の柳の木の方で女が、
「おや、あなたはどなた?」
と言ったのが、兵馬の耳には聞えませんでした。

         六十七

 兵馬が、紙屑買いを糺問《きゅうもん》していることの瞬間、後ろの女のことは暫く忘れておりました。
 忘れて置いても安心というところまで、介抱が届いていたからではあるが、この怪しの者を、最初から屑屋なら
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