から、我々には好意を持っていてくれたものが、急にこんなになったのは、お嬢さんの言う通り、黒幕という奴がさせるのだろう。
黒幕が悪いのだ。
と、茂太郎はようやく黒幕へ持っていって、責任の帰するところを求めようとしました。
そんなら黒幕を外《はず》してしまいさえすれば、いいじゃないか。
六
黒幕を外してしまえ。
それは田山先生がいいだろう、田山先生は強いから、きっとその幕を外せるだろう。黒幕というのは一体、どこにどう張ってあるか知れないが、さがせばわかるに違いない。
それはそれとして、今眼前、焼き殺されようとするマドロス君がかわいそうだ――
茂太郎は、今になって、全くマドロスに同情してしまいました。立ちのぼる紅《くれない》の炎に、無限の恨みを寄せています。
その時に、左の一方は海ですから、絶えずザブリザブリと、寄せては返す仇波《あだなみ》が、月の色を砕いて、おきまりの金波銀波を漂わせつつ、極めて長閑《のどか》に打たせていたのですが、陸なる紅の炎を見ることに、心の全部を吸い取られた茂太郎は、今し、全く閑却していたその海の方を、あわただしく向き直りました。
それは彼の俊敏な五官の一つに響いて来たものの音、やや遠く近く、櫓拍子《ろびょうし》の音が、この海から聞え出したからです。
そこで、くるりと海の方へと向き直った茂太郎は、直ちに、程遠くもあらぬところに、一艘《いっそう》の小舟が櫓を押して通り過ぐるのを認めました。どうも、今時、この海を、岸づたいとは言いながら、あの小舟で乗りきることに、少々の意外さを感じながら、きっと闇を通して見たのは、その舟の中です。
茂太郎の眼は、たしかに異常です。異常なのは眼だけではありませんが、その眼は特別によく働く機能を授けられている。それにこのごろは、天文を見ること、星を数えることに、毎夜の如く慣らされているから、その感覚が一層精練されて来ているようです。
それですから、暗夜でも物を見るのは、さして苦としないのを、今夜は形《かた》の如き月夜ですから、眼の前を通る舟の中を見定めてしまうことは、なんでもありません。
「あ!」
そうして、ここでもまた、あっ! と驚かねばならないものを発見しました。
今、現に、櫓《ろ》を押しているその人は……それこそ、自分が現に極度の同情を寄せていたマドロス君その人ではないか。
そうしてまた一方、舳《みよし》の方に、もう一人いる。それとても別人ではない、昨今、遠方からここへお客に来ている七兵衛というおじさんではないか。
さしもの茂太郎が、そこで途方に暮れてしまいました。
あの天神山で焼き殺されているマドロス君がマドロス君であるならば、今、ここを小舟で通り過ぎているマドロス君がマドロス君であり得るはずがない!
どうしたのだろう?
そこで思い乱れた茂太郎は、前後の思慮もなく、大声をあげてしまいました、
「マドロスさあーん」
舟の櫓拍子は相変らず聞えるけれども、返事はありません。
では、あの過ぎ行く舟の中の人はマドロスさんではないのか――いや、たしかに、あれがマドロス君でなければ、ほかにマドロス君があろうはずはない。
もしかして、自分の眼に誤りがあったのかと、ちょっと眼をそらして天の方を見ると、いつも見るカシオペヤも、オリオンも、月光に薄れながらはっきりと見える。海の波も、陸の色も変りはない。ひとり、この眼でマドロス君だけを見誤るはずがない。そこで、茂太郎は二度《ふたたび》、大きな声で呼んでみました、
「そこへ行くのはマドロスさんじゃないかエ、マドロスさん!」
けれども、いっこう手答えがなく、舟はそのままグングンと力限りに漕《こ》がれて行ってしまう。しかし、漕がれて行く先は、遠く外洋へ出でようというのではない、近く岸に沿うて、そうして、遠見の番所、造船所の下の方へと、筋を引いて行ってしまうのです。
七
唖然《あぜん》として、岩角に隠れた舟を見送っていた茂太郎が、またも思い返して天神森の方を見ると、さきほどの火は大分に薄れてゆきましたが、この時、ちょうど、蜘蛛《くも》の子を散らしたように、柿の実をバラ蒔《ま》いたように、その真黒な天神森から、点々として、多くの火影が飛び出したのを認めました。
提灯《ちょうちん》か、松明《たいまつ》か知らないが、おのおの小さな火の子を手にして、多くの人数が、崩れ出したことはたしかです。
そうして、見ているうちに、右の火の子が、四方へ散り乱れたけれども、やがてそれがほぼ一つになって、長蛇のような形で、こちらへ向いて来ることもたしかです。
茂太郎は、今それを怖れ出しました。
とにかく、一目散に、番所まで逃げ込むことが急務だと考えたものですから、また、息せき切って砂
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