かも、前へは摺《す》らないで、うしろへ摺る。
 白雲は、莞爾《にっこ》として、娘を迎えようとする。
 しかも娘は蒼《あお》くなる。
 白雲は、怖いものじゃないよ、という表情をして見せて、再び小手招きをする。
 娘は、また足摺りをする。やはり、後ろへ向って、こっそり足摺りをしていたのが、やや小刻みに、二足ほど引く。それでも、姿勢は棒立ちになった心持。
 松の立木と、萩の下もえとを間にして、その間約半丁――
 いかに白雲が、好意を示し、小手招きをしても、娘は近寄らない。この間《かん》、しばし。
 やがて、三足、四足と、急速に踵《くびす》を返すと、まっしぐらに、身をねじ向けた娘、そのまま真一文字に、もと来た道へ馳《は》せ下ってしまいます。その、処女《おとめ》にして同時に脱兎の如き文字通りの退却ぶりを見て、白雲はあいた口がふさがらないのです。
 だが、その心持と、進退のほどはよくわかる。申すまでもない、恐怖がさせた業で、彼女の恐怖の的となっているのは自分――男性でさえ、この御面相ではかなり避けて通すことになっているこのおれというものに、この時節、こんなところで、不意に呼びかけられて、あの態度を取ることは、先方の身になってみれば、ちっとも不思議ではない。
 しかし、気の毒な思いをさせた。こちらは、不意に出逢わせてはかえって虫を起すだろう、ワザと遠くから予備意識を与えて、この自分というものが、見かけほどに怖ろしい男ではない、という諒解《りょうかい》を与えておこうとした好意が、かえって仇《あだ》となって、娘を逃がしてしまった、気の毒なことをしたよ――と苦笑しながら、その逃げ去ったあとを見つめると、何か落しものをしている。

         十五

 傍へよって落したものを見ると、それは金唐革《きんからかわ》の香箱でした。
「やれやれ、かわいそうなことをしたわい」
 白雲が大事に拾い上げて見ると、箱の中には、鼈甲《べっこう》の櫛笄《くしこうがい》だの、珊瑚樹の五分玉の根がけ[#「根がけ」に傍点]だのというものが入っている。
 あの娘が、後生大事に抱えて来たものだ。
 風呂敷へも、籠へも入れず、こうして持って歩いたのは、途中も嬉しいことがあって、時々、取り出してはながめ、取り出してはながめずにはおられない理由というほどのものがあって、自然に下へは置けなかったのだろう。
 あちらの町
前へ 次へ
全162ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング