かさにつれて、とめどもなく溶けて流れ出すのは、ぜひないことです。
「皆さま、わたくしがああして、大野ヶ原の雪に迷うて、立ち尽していたことまでは、皆様も御存じのことと思いますが、あれからのわたくしは、自分のことながら、よく自分のことがわかりませんでございました。わたくしの頭の上で、鳩の啼《な》く音が致しますから、はて、不思議な啼き声だと、それを聴いておりまするうちに、気が遠くなってしまいました。つまり、わたくしは、雪の大野ヶ原に行倒れになってしまいましたのです。それが、幾時かの後に、またこの世に呼び戻されてしまいました。と申しますのは、無論、わたくしは、わたくし自身の力で蘇《よみがえ》ったわけではございません、雪に埋れたわたくしというものを、凍え死なない以前に助け起して下された方があればこそ、わたくしの命が助かりました。命が助かりましたればこそ、わたくしはこうして安全に、温泉で湯あみを致しておるのでございます……それなれば、誰が、雪にうずもれて――当然あそこで凍え死なねばならぬ、わたくしというものを助けて下さいましたか。それをまず申し上げなければ、皆様は、わたくしがここへ来ているということをすら、お信じにならないかと存じます。大野ヶ原の雪にうずもれた、わたくしというものを、偶然の縁で、再びこの世の中につれ戻しなされたのは、皆様も御存じか知れませんが、それは黒部平《くろべだいら》の品右衛門爺さんでございました」
 弁信は、ここまでは一気に喋《しゃべ》って、それから手拭でツルリと一つ面《かお》を撫でおろして、そうしてお喋りを続けました、
「黒部平の品右衛門爺さんというのは、黒部平の駕籠《かご》の渡しの下に小屋を作って、その中で三十七年の間、岩魚《いわな》を釣って暮らしていたお爺さんでございます。その品右衛門爺さんが、鉄砲を担いで、大野ヶ原を通りかかった時分に、雪の中に埋もれておりましたわたくしのからだの一部分を発見して、そうして掘り出して、用意の火打で岩蔭に火を焚いて、わたくしを煖めて呼び生かして下さいました。わたくしは気がついて、目をあいて、猟師さんに助けられたと見たものですから、その時に申しました、どちらのお方かは存じませぬが、殺生《せっしょう》をなさる猟師の御身分で、人助けをなさる果報を、あなたのために嬉しく存じますと、わたくしが申しました――」
 してみると、この
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