槍の権三《ごんざ》は美《よ》い男
どうでも権三は美い男
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 お倉婆あが年に似合わない美声をあげる。
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しんしんとろりと美い男
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 踊り子は踊りながら手招きをする。

         九十二

 それから主膳は、夢だか、うつつだか見当のわからない境へ誘い込まれて、そこらで再度の眠り慾が勃発して、いい心持で、むやみに眠ってしまいました。今度こそは、束《つか》の間《ま》のうたた寝を揺り動かされる心配はなく、思うように眠りを貪《むさぼ》ることができるのを喜んで、眠りこくっている。
 ほとんど、どのくらいのあいだ眠ったものか、自分にも分らないが、醒《さ》めた時は、寝不足と、酔いとは、二つながら、すっかりさめ切ってしまっていました。
 だが、時間の方は醒めてはいない。眠りと、酔いとが醒めた時は、たしかに夜中であることに気のついたのは、長い思案の後ではなく、寝間の状態もはっきり眼にうつると共に、近くに誰もいないのも、いない奴が悪いのではなく、程よい時間で、お暇乞いをして行ってしまったものであることはハッキリとする。酔っていない主膳は、それも無理ではないと思う。
 枕許の酔ざめの水を飲んで、うまいと思い、それから手水《ちょうず》に行こうとして、ひとり立ち上った足どりも、あんまり危なげはない。
 勝手知った廊下を歩んで行く。
 なるほど、夜は更けている、何時《なんどき》か――おやおや鶏が啼《な》いているわい。
 夜明けの近いことを知った主膳は、なんだか一種異様の里心といったようなものに動かされて、本当にはっきりした気持で、また廊下を歩いて帰りました。
 たまに、こんな気紛れ遊びをすることも、頭が冴《さ》えていいものだ、幸いにして乱に落ちなかったのは、我ながら上出来というものだ。いや、我ながらではない、ここのお倉婆あの趣向が上出来というものだろう。あの婆あ、煮ても焼いても食えない奴だが、それでも、人のふところを見て取扱う呼吸は、手に入ったものだ。
 酒に酔わせるよりは、踊りに酔わせて、夢心地のうちに人を抱き込むところなんぞは、伊勢古市でやっているような仕組みだが、あんなにされると、アラが知れない。
 主膳は、こんなことを考えて、ニタリニタリと合点《がてん》しながら、廊下を帰って、自分の座敷へ戻ったのだが――戻った
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