つもりなのだが、それは三つばかり行き過ぎた隅の、間取りがよく似たほかの座敷であったことは、障子を開いて、足を踏み入れた途端に、それとさとったので狼狽《ろうばい》しました。
何が頭が冴《さ》えたのだ、何が上出来なのだ、危ない! 危ない!
と気がついたのは、たしかに遅かったのです。
「だあれ?」
中から、なまめかしい女の声がしました。
「しまった!」
主膳は、我ながら、しくじったことの念入りなのに、呆《あき》れたのが、いよいよ一方の主《ぬし》をおさまらないものにしてしまいました。
「お倉婆さん?」
なまめかしい女の声が、追いかけるように続いたものだから、
「いや、なに!」
主膳は、逃げるようにこの場を立去るよりほかに、手段のないことを知りました。
「まあ、お倉婆さんじゃないの?」
中の主は、さすがに、そのままでは済まされない気になったらしく、そわそわと着物を引寄せて起き出ようとする。
「失礼、失礼、座敷を間違えました」
主膳は、これだけの詫《わ》び言《ごと》を捨ぜりふにして、まっしぐらに自分の座敷に来て、夜具をあたまからかぶってしまったが、先方も、ここまで追っかけて来る気遣《きづか》いはない。さりとてまた、けたたましく人を呼び起して、たった今、この座敷へ怪しい者が入りましたよと、騒ぎ立てる気配《けはい》もないらしい。多分、先方は、戸惑いをしたそそっかしい客人の仕事だろうと、苦笑いをしていることだろう。こっちもホッと息をついて、我ながらの失敗に、苦笑いが出きらないでいたが、その苦笑いの底から、不意に、
「今のあの声は、あれはお絹ではないか」
勃然としてこういう偶想が起ると、けったいな雲が、むらむらと目口を覆うのを感じました。
九十三
ああ、思い返してみると、今のあの、なまめかしい声の主は、お絹ではなかったか。
どうも、お絹の声らしい。娘の声でもなく、芸妓あたりの調子でもない。甘ったるくて、妙にかさにかかるような言いぶり、こちらがあわてていたから、その場で声の吟味までは届かなかったが、今、耳の底から取り出してみると、お絹でなければ、あの声は出ないように思われて仕方がない。
だが、いくらなんだって、そんな事は有り得ることではない。あの女はあの女だけのものだが、いくらあの女だって、自分が今晩、ここに遊んでいるということを知りながら、
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