「そんなこと、どうだって、いいじゃありませんか、それよりは、もう一つ召上れ」
「おやおや、御意見番から再度の杯、そろそろ味が出て来た」
「殿様は、ちょいちょいこの家へいらっしゃいますか」
「昔はよく来たものだが、今日は、思いがけない出来心でな」
「子供衆をお呼びになるんだそうでございますね、近ごろ珍しいお好みだと、おっかさんが言ってましたよ」
「うむうむ」
「もう見えそうなものですねえ」
「いいよいいよ、そう急がんでもいい。ところで、お前、その女角力としてのお前の経歴を、ひとつ話してくれないか」
「いけません、わたしは女角力の仲間には入ったことはございませんよ」
「ないことがあるものか。あの女角力というやつ、あれでなかなか愛嬌ものでな、今は差止められてしまったが、以前はなかなか流行《はや》ったものだ」
「そうでございますってね」
「そうでございますってじゃない、お前なんぞは、それで鳴らしたに相違ないが、商売はやめても力はあるだろうな、力は――」
 主膳は、しつこく、おせいを追及して、その肥大なる肉体にさわると、
「殿様は、わたしを女角力とばかりきめておしまいになるが、わたしは一向、女角力のことなんか存じませんよ」
と言っておせいが、主膳の膝をしたたかつねりました。

         八十八

「あいたッ」
 主膳が、つねられて驚くと、おせいは平気なもので、
「御冗談をなさいますな、角力こそ取りませんでしたが、わたしゃこれで、今でも男の二人や三人、何でもありませんよ」
 おせいさんにしては少し舌の足りない、たんか[#「たんか」に傍点]を切ったので、いよいよ興に乗った神尾主膳は、
「そうだろうとも、男の二人や三人、振り飛ばすは何でもあるまい。どうだ、おれと角力をとっても負けまいな」
「殿様だって誰だって、やわら[#「やわら」に傍点]さえお使いにならなけりゃ、頭から押えてしまいますね。ですから、おっかさんが、もしや殿様が酒で乱暴をなさったら、かまわないから、頭からおさえてしまいなさいと言いました」
「なるほど……」
 神尾主膳が舌をまいて、なるほどそうありそうなことだと思いました。同時に、こいつ、金公と、お倉婆あに頼まれて、自分の酒の監視役に来たのみならず、まかり間違えば、このおれを取押え役まで言いつけられて来たのだなと思いました。
 よしよし、その儀ならば、こっち
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