、特にお絹という女にとっては、その粕こそが珍重物である。
お絹は、その七兵衛の稼ぎための粕によって、当座の自分たちの生活に潤いがついたことによって、はしゃぎ出し、今日も主膳に向って、こんなことを言いました、
「あなた、築地《つきじ》へ異人館が出来たそうですから、見に行きましょうよ」
「うむ……」
「たいしたものですってね、あの異人館の上へ登ると、江戸中はみんな眼の下に見えて、諸大名のお邸なんぞは、みんな平べったくなって、地面へ這《は》っているようにしか見えないんですって」
「うむ……毛唐《けとう》めは、なかなか大仕事をやりやがる」
「異人は、何でもすることが大きいのね」
「うむ……あいつらの船を見ただけでもわかる、いまいましい奴等だ」
「そうしてまた、いちばん高いところへ登ると、上総、房州から、富士でも、足柄でも、目通りに見えるんですとさ」
「話ほどでもあるまいがな」
「話より大したものですとさ、本館が鉄砲洲河岸《てっぽうずがし》へいっぱいにひろがって、五階とか六階とかになっているその上に、素敵な見晴し台があるんだそうですから」
「うむ」
「それに、その見晴し台には、舶来の正銘に千里見透しという遠眼鏡が備えてあるから、それで見ると、支那も、亜米利加《アメリカ》も一目ですとさ」
「話百分にも、千分にも聞いているがいい」
「聞いてばかりいても、つまりませんから、見てやりましょうよ、ちょうど、天神下の中村様から伝手《つて》があって、紹介してやるから、見物に行ってこいと言われました」
「うむ、中村が……見てこいと言ったか」
「ええ、あの方、異人の大将にごく心易《こころやす》い方があるんですって。ですから、あの方に紹介していただけば、間取間取《まどりまどり》もみんな見せてもらえるし、見晴し台へも上れるし、その遠眼鏡も、飽きるまで見せてもらえるんですとさ」
「うむ」
「あなた、いらっしゃらない?」
「うむ」
「わたしは、あなたもお連れ申して行くように言いました、あなたとは言いませんけれども、一人二人お友達をつれて行くかも知れないがよろしうござんすか、と念を押しますと、さしつかえないと言いましたから、ぜひ、一緒にいらっしゃいまし」
「お前のおともをして行くのも、気が利《き》かないなあ」
「そんな気取ったことをおっしゃるな、かえってお微行《しのび》のようで、いいじゃありませんか」
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