の一人も起き出ていない時分に、与八が郁太郎を背に負うて、今日こそは、この屋敷を発足するところの姿を見ました。
それは、お松の一行は東へ――そうして与八は、西へ向って多摩川を溯《さかのぼ》るのです。
背に子を負うているから、かぶることができないためでしょう、笠を胸に垂れて、そうしてささやかな一包みの荷物――草鞋《わらじ》脚絆《きゃはん》に、いつもするような無雑作《むぞうさ》な旅装いではあるが、ただ、いつもと変っているのは、与八の腰に帯びた一梃の鉈《なた》です――鉈という字、この場合彫と書いた方がふさわしいかも知れないが、それは、筏師《いかだし》がさすように筒に入れて籐《とう》を巻いたのを、与八は腰にさしています。
与八として、こんなものを護身用として持たねばならぬ人柄ではないはずです。これは東妙和尚から授けられて、これによって、行くさきざきで、与八独特の彫刻を試みて、それで世渡り、旅稼ぎをしようとの用心にほかありません――
行き行きて、その翌日、大菩薩峠の麓まで来ました。
与八としては珍しくない道。自分の立てたお地蔵様はどうなっているか――それにもお目にかかりたいが、今日はそこでとどまる旅路ではない、峠の彼方《かなた》にはお浜の故郷もあれば、慢心和尚も待っている――今度はそれより先の道中、どうかするといずこの果てかで、弁信法師あたりにもぶつからない限りもないでしょう。
七十八
根岸に閑居の神尾主膳とお絹は、閑居は相変らず閑居に違いないけれど、このごろは、幾分か荒《すさ》みきった生活に経済的に潤いが出来たらしく、お絹は、しげしげと買物に出かけたり、家へ寄りつかないではしゃいでいることもあるのを以て見れば、どこからか水の手が廻っているものと見なければならぬ。だが、どこからといって、ほかから来るところがあるはずはない、多分七兵衛あたりが、さんざんに人を焦《じ》らした上で、その稼《かせ》ぎ貯めを、ぱっとばらまいたものと見るよりほかはないでしょう。
七兵衛の奴は、稼ぎさえすればいいので、稼ぎためなんぞは存外、頭に置いていない男だから、自分が稼ぐことの興味と、労力とのほぼどの程度であるかということを、相手に納得させてやりさえすれば、その粕《かす》に過ぎないところの稼ぎためなんぞは、思ったより淡泊に投げだしてしまうに違いない。ところが、二人のうち
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