ところへ進んで、お雪ちゃんの心が怪しくなって、衣桁に手をかけてみましたが、その手を自分の帯の方へ取替えて、帯を解き、着物を脱いで、とうとうイヤなおばさんの記念《かたみ》の縮緬の着物を、すっかり着こなしてしまいました。
イヤなおばさんでも、怖いおばさんでもなくなってしまいました。
こうして着こなしてみると、お雪ちゃんはなんとなくそわそわした気持になって、誰かに見せたい――というようなそぞろ心から、竜之助の居間へ行ってみる気になってしまいます。
竜之助の居間へ行って見ると、竜之助は刀の手入れをしていました。
落着きのある書院の、よい日当りを細骨の障子に受けて、あちら向きに刀の手入れしている竜之助。
刀の手入れをなさることは、ちかごろに珍しいことだと思いましたが、それだけ気分が穏かに、環境が落着いているせいでしょう――と、お雪ちゃんはそれを喜び、そうしている竜之助の形を、よい形だと思いました。
七十一
武州沢井の机の家が、このごろ、急に物騒がしい空気に駆《か》られたように見えます。
別に凶事があって、騒がしいというわけではないが、いつも、しんみりと落着いた一家の空気に、なんとなく一道の陽気が吹き入ったかのように見えるのです。
第一、ここの女主人ともいうべきお松が、急にはしゃいだというわけではないが、なんとなく動揺を感じて、心が浮き立ち、何かここにもある時期に達したもののように見えます。
それというのが、たしかに原因はあることなので、その原因というのは、さきごろ、房州方面へ行った七兵衛親爺が、立戻って来てから以来のことです。
その晩、炉の前で、数え年|四歳《よっつ》になる郁太郎《いくたろう》を、その巨大な膝に抱きあげている与八に向って、お松が、こんなことを言いました、
「そういうわけですから、与八さん、この土地も惜しいけれども、この子供さんたちのために、どうしても、駒井の殿様のお船の方へみんなして移るのが、おたがいの幸福じゃないかと思います。この土地のことは、この土地のことで、みんな居ついている人で、わたしたちは尽すべきだけのことは尽し、おたがいに人情ずくで、多少の名残《なご》りはあるけれども、立退いたところで、人様に御迷惑をかけるようなことにはなっていないから、ここは、いっそ、わたしたちは駒井の殿様の方へうつり、殿様をたよったり、
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