る。
「だんだんに強くなったのね、物凄いわ」
これもいい心持で、するようにさせての女の言い分です。
「まあ、擽るんじゃなくて、締めるの」
その時に、後ろの者の面《かお》が、グッと女の頬先まで来ましたから、女はしな[#「しな」に傍点]をして、首を横へねじ向けた途端――
「おや……」
女は後ろの人の面を見ようとして、覆面に隠されたそれを見得なかったのでしょう、怪しみの声が、急にうめきの声に変りました。
「あ、本当に、わたしを締めるのですか、く、く、苦し……」
大きな蛇が、すっかり、この女の首を捲ききってしまいました。もう、何の冗談《じょうだん》も、持たせかけもありません、大蛇《おろち》の火を吐くような息が、女の頬にかかるだけです。
宇津木兵馬が、屑屋を放免して、そうして、柳の木の下に立戻った時に、その女はそこにいませんでした。
柳の木の蔭にも、無論誰もおりません。
六十八
屑屋を突っ放した宇津木兵馬は、以前のところへ戻って見ると、そこに以前の女がおりません。
柳の木の蔭にも、高札場の石垣の後ろにも、見渡す限りの焼野原にも、いずれにも、人の影を見ることができませんから、一時は夢の中の夢ではないかと、自ら怪しみました。
ふむ、あの気紛《きまぐ》れ者が、僅かの隙にずらかったのだな、千鳥足でフラフラとさまよい歩き、結局は自分の家か、例の清月とかなんとかへでも納まったのだろう――とりとめのない奴だ、と呆《あき》れながら兵馬は、柳の木の蔭を見ると、そこに何か落ちている。
よく見ると、それは、女の赤いゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]とか蹴出《けだ》しとかいうものが、ずるりと落ちている。
それを見ると兵馬は、実に度し難いやつは女だと思いました。
女であり、酔っぱらいであることによって、こちらが譲歩して、あれほど世話を焼かせているのに、ようやく醒《さ》めて、独《ひと》り歩きができるようになれば、お礼はおろか、挨拶の一言もなくして、行きたいところへ行ってしまう。こういった奴は、あの女には限るまいが、あんなのは殊にああしたもので、その図々しさと不人情が、商売柄だ――とはいうものの、あの女もああいう商売をして、所々を転々させられている。本当に図々しい、不人情ならばとにかく、あの若さで、あの縹緻《きりょう》だから、相当に納まっているはずなのに、それがで
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