コにあるんだい。ようし、一番夜明けまでには、まだ一仕事の隙《すき》は、たっぷりあらあ、そのお代官邸てえのへ、ひとつ見参してみようじゃねえか。これから夜明けまで、その百姓上りだという手取者《てとりもの》の好き者のお部屋様んところへ推参して、そこで一ぷく、お先煙草の御馳走にあずかろうじゃねえか。
いいところへ気がついた、なあにこれだけのところだ、誰に聞かねえったって、走っているうちには代官邸らしいのにぶっつかるだろう。そのお部屋様というのが、そういうお前、話の分った女であった日にゃあ、土臭い地侍ばかり食べつけているのと違って、こっちもがんりき[#「がんりき」に傍点]の百だよ、野暮《やぼ》におびえさせて、お説教ばかり聞かしてもおられねえ、話がもてて来た日にゃ、夜が明けても帰さねえよ、てなことになってくる。せっかく、訪ねて来たがんりき[#「がんりき」に傍点]のために野《や》を清めてしまったうえは、今夜の御定宿はひとつ、そのお代官邸のお部屋様のお座敷と、こういう寸法にきめてやろうじゃねえか――
まあ、待ってくんな、せいては事を仕損ずる、それにしても咽喉《のど》が火のようだ。
井戸はねえかな、井戸は……やむことを得なけりゃあ、さきほどの、あの高札場の屑屋の這《は》い出した井戸まで引返すかね。
こうして、この門前をうろつき出したやくざ野郎は、ほどなく、代官屋敷の裏門の掘井戸のところへ姿を現わしたことを以て見ると、求むるところのものに、同時にありついたようなものです。
五十八
宇津木兵馬が、ここへ来てから、一つ気になるのは、お代官の邸の奥向のことです。
このお代官には女房は無くて、お気に入りのお妾が、一切を切って廻していることは、それでいいとしても、兵馬が気になり出したのは、このお妾がいかにも水っぽい女で、たしかにいい女というのだろう、血相のいい顔に、つやつやしい丸髷《まるまげ》を結って、出入りの者や、下々の者までそらさない愛嬌はたしかにあって、代官が寵愛《ちょうあい》するのも、のろいばかりではない、まあ、この妾にも寵愛を受けるだけの器量はあるのだ。
この奥向を切って廻して、主人をまるめて置くだけの器量のある女には相違ないが、兵馬が気になり出したのは、品行の悪い噂《うわさ》で、それも噂だけではない、兵馬の眼にも、それと合点《がてん》のできるほど、
前へ
次へ
全162ページ中93ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング