おやじよ、あわてて井戸へおっこったらしいが、危ないこった。それをみすみす、手を出してやることもできねえで、命からがら、ここまで逃げのびたがんりき[#「がんりき」に傍点]の心根が、自分ながらつくづく不憫《ふびん》でたまらねえ。がんりき[#「がんりき」に傍点]の百ともあるべきものが、飛騨の高山へ来て、辻斬のお化けにおどかされたとあっては、もうこの面《つら》は東海道の風にゃ吹かせられねえ――憚《はばか》りながら、このがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、見てくんな、こうして右の片腕が一本足りねえんだぜ、向う傷なんだ。この片一方の腕に対《てえ》しても、面《かお》が合わせられねえ仕儀さ。何とかしてこの腹癒《はらい》せをしねえことには、この虫がおさまらねえ。といって、気の利《き》いたお化けはもう引込んでいる時分に、またも現場へ引返して、虚勢を張ってみたところで、間抜けの上塗りであり、抜からぬ面をして、おじいさん、井戸は深いかえ、も聞いて呆《あき》れる。
 いったい、ここはドコなんだろう。お寺だな、かなり大きなお寺の門だ。なあるほど、飛騨の国は山国だけあって木口はいいな、かなりすばらしいもんだが、何という寺なんだ、名前も何もわかりゃしねえ。
 さて――と、今晩、これから落着くところは、自暴《やけ》だな、自暴と二人連れで、この腹癒《はらい》せに乗込んでみてえところはさ、目抜きのところはすっかり焼けてしまっていて、どうにもならねえ。
 今になって、思い出したのは、あの御用提灯と、陣笠と、打割羽織《ぶっさきばおり》の見まわりだが、あの見廻りのお上役人だか、土地の世話役だかわからねえが、おいらの眼と鼻の先で、乙なことを言って聞かしてくれたっけなあ。
 その事、その事。それを今、ここんとこで思い返していると、なんだかゾクゾク虫酸《むしず》が走ってくるようだぜ。ここのお代官がなかなか好き者で、そのお妾《めかけ》さんが百姓出の娘には似合わず、また輪をかけた好き者で……旦那をいいかげんにあやなして置いちゃあ、中小姓であれ、御用人であれ、気の向いた奴には、相手かまわず据膳をするとかなんとか。そいつをお前、高山入り早々のがんりき[#「がんりき」に傍点]の鼻先で匂わせて下さるなんぞは気が知れねえ、そんなのを、今までトント忘れていたこっちも、人が好過ぎるじゃねえか。
 いったい、そのお代官邸てのはド
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