眼に余るところも見えないではないが、兵馬のわけて気になるのは、どうも自分に向ってまで、眼の使い方が解《げ》せないことがある。それが、日一日と強くなって、あの火事の騒ぎの晩なぞは――兵馬はその晩のことを思い出して、いよいよ変な気になりました。
 このお部屋様が、自分に誘惑をやり出している、ということが、ハッキリわかってくると、全くイヤな心持です。
 ただ、イヤな心持ではなく、二重にも三重にも、イヤな心持がするのは、自分のほかに、ここに召使われている誰彼の用人、小姓、みんなあれと同様の色目にあずかっているらしいからで、そうして、自分が新しくて珍しいものだから、特別に――という思わせぶりがたっぷりだからです。
 つまりこうして、自分をおもちゃにしてみようといういたずら心なのだ。そうして、そのおもちゃになりつつ、表面は至極心服の態《てい》に見せているものが、現にこの邸の中に一人や二人はあるらしい。それでも、おたがいたちのうちに鞘当《さやあ》ても起らないし、お代官そのものもいっこう悪い顔をしないのは、お人好しで全く気がつかないのか、或いは自分が相当の食わせ者であるだけに、気がついても、見て見ないふりをしているのか。一方からいえば、それで風波を起さずに抑えているところは、どこかに、あの女の度胸だとも、器量だとも言えないことはない。
 だが、度胸にしても、器量にしても、それは浅ましいものだと、兵馬には感ぜずにはおられません。そうしてその浅ましさが、今は一途《いちず》に、自分の方へ向って圧迫されて来ることを感ぜずにはおられないのです。
 一日も早くこの地を立った方がよいと思っている一方に、またあのお代官の引力がなんとなく強い。あのお代官はお代官でまた極力、この自分を引留めて置きたい了見《りょうけん》が充分にある。その了見を露骨にしないで、搦手《からめて》からジリジリと待遇をもって自分を動かせないようにして手許へ引きつけて置きたいとの了見がよくわかっている。兵馬は、それをいいかげんに振りきって、出立せねばならぬと思いつつも、その待遇についほだされてしまう。なにも特別の義理はないし、人物に対しても、そう離れられないほど、尊敬も心服もしているのではないが、このお代官にある力で引きつけられて、急に腰をあげられないような気持にされているのが不思議だ。
 お妾の色目と、それとは全く別なことはわ
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