現われようとするに違いない。
五十一
このたびの大火にあたって、いつぞや、宇津木兵馬が触書《ふれがき》を読んだ高札場《こうさつば》のあたりだけが、安全地帯でもあるかのように、取残されておりました。
歯の抜けたような枝ぶりの柳の大樹までが、何の被害も蒙《こうむ》らずに、あの時のままですが、今晩この夜中に、天地が寂寥《せきりょう》として、焼野が原の跡が転《うた》た荒涼たる時、その柳の木の下に、ふと一つの姿を認められたのは、前の桜の馬場の当人とは違います。
その者は、三度笠をかぶって、風合羽《かざがっぱ》を着た旅の人。
いつのまにやって来たか、この寂寞《せきばく》と荒涼たる焼跡の中の、僅かな安全地帯に立入って、柳の木の蔭に立休らい、いささか芝居がかった気取り方で、身体をゆすぶって、鼠幕のあたりを、頭でのの字を書いて見上げたところ、誰か見ている人があれば、そのキッかけに、「音羽屋《おとわや》!」とか「立花屋《たちばなや》!」とか言ってみたいような、御当人もまた、それを言ってもらいたいような気取り方だが、あいにく誰もいない。
人の見ていると見ていないに拘らず、こんな見得をしたがる男で、一応見得を切っておいて、それから左の手を懐中へ入れて、ふところから胴巻のようなものを引き出した形までが、いちいち芝居がかりで、引き出してから押しいただき、「有難え、かたじけねえ」と来るところらしいが、そんなセリフは言わず、胴巻のようなものの中からあやなして、何を取り出したかと見れば、竹の皮包は少々色消しです。
でも、包みの中を開いて見るまでは、舞台に穴を明けるほどの色消しにもならなかったが、やっぱり片手をあやなして、竹の皮包をいいあんばいに開いて、中身をパックリと自分の頤《おとがい》の上へもって行ったところを見ると、色男も食い気に廻って、さっぱり栄《は》えない。いい男が、いいかげん気取ったしな[#「しな」に傍点]をして、懐中から取り出した一物が何かと見れば、それはつけ焼きの握飯《むすび》であって、それをその男が二つばかり、もろにかじってしまいました。
これががんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵といって名代(?)のやくざです。
いつのまに、このやくざ野郎、こんなところまで来やがった?
先日来は、尾張名古屋の城のところで、金の鯱《しゃちほこ》を横眼に睨《にら
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