》みながらいやみたっぷりを聞かせていたが――名古屋からここにのし[#「のし」に傍点]たと見れば、この野郎の足としては、さまでの難事ではないが、こんな野郎に足踏みされた土地には、ロクなことはないにきまってる。ロクなことがないといっても、南条や、五十嵐あたりとは、いたずらのスケールが違うから、飛騨の高山へ来ても、高山の天地を動かすようなことはしでかすまいけれど、高札をよごすくらいのことはやりかねぬ奴です。
 とにかく、このごろ、飛騨の高山も、なんとなく浮世の動静が穏かでないけれど、こんなやくざ野郎の姿はきのうまでこの土地には見えなかった。それを見たのは今晩、このところに於て初のお目見得《めみえ》ですから、野郎きっと夜通し飛んで来てみたが、目的地へ来てみると、自分を出し抜いて、火事が目当てを焼いてしまっていたので、面食ってしまったに相違ない。
 来てみて、はじめて口あんぐりと握飯《むすび》を食う始末……焼跡をうろついて、あやしまれでもしては、このうえ気の利《き》かない骨頂。そこで、そっと安全地帯に立入って、高札場の下の、柳の大樹の下に落着いてみると、急に腹が減り出したという次第と見えます――焼握飯《やきむすび》をたべてしまってみると、水が飲みたい、あそこに井戸があるにはあるが、釣瓶《つるべ》までそっくり備わっているにはいるが、うっかり水汲みに行くのも考えものだと、野郎その辺にはかなり細心で、井戸もあり、釣瓶もあり、その中には当然水もあることを予想しながら、焦《こ》げつく咽喉《のど》を抑えて、柳の木蔭を動こうともしないでいる。
 前後左右をよく見定めておいてから、たっぷり水を飲もうという了見らしい。

         五十二

 果して提灯《ちょうちん》が来る――二つ、三つ、四つ、五つの提灯のやって来ることを数えられるほどになって、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は笠を外《はず》し、自分の身を斜めにして、柳の木を前にすると、ほとんど不思議のようで、本来からだだけは御自慢の、きゃしゃに出来ていることはいるが、それにしても、比目魚《ひらめ》を縦にしたような形になってしまって、大木といっても、本来街路樹ですから、決して牛を隠すのなんのというほどではない、ざらにあるだけの柳の木なのですが、前から見ると、がんりき[#「がんりき」に傍点]一人を隠して、髪の毛一つの外れも見えなく
前へ 次へ
全162ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング