の間抜け馬丁、刺客にお手伝いをして、主人を俎《まないた》にのせてやった馬鹿者――こんな奴こそ、馬に噛み殺させてやりたい、踏み殺させてやりたい。
 こうして、馬と人とに理解のないということが、大きな不幸をめぐらすと共に、大きなる恵みをもたらすのです。しかし、理解のないことは、どちらも同じことで、象山の馬が、日本一間抜けの馬丁《べっとう》に制裁を加える資格も、能力も無い如く、今度のこの馬丁も、自分が馬のために救われていたということは、永久に理解することができないで、これから後の、この馬の履歴書には、「いい馬だけれども、不意に引っかける癖があってあぶねえ」という申し分がついてしまいましょう。
 ところで、この理解のない馬は、今晩、そのほかにもまた一つの功徳《くどく》を作っていることを自ら知らない。
 それは今晩、ゆくりなくも嚇《おどか》された音無しの怪物に、飛騨の高山へ来てから最初の、血祭りの刀を抜かせなかったということは、やはり重大なる功徳の一つであったに相違ないと思われるが、やっぱり、この功徳を誰も知る者がなく、称《たた》える者がなく、感謝する者もない。
 音無しの怪物からいえば、この時に馬子を斬ろうとしたのは事実で、斬ろうとするに、その風向きを見はからっているうちに、馬に奔逃《ほんとう》されて、斬るべき機会を失って、我ながら呆然《ぼうぜん》として、見えぬ眼に走る馬を見つめて、暫く立ち尽していたことも本当です。
 ことさらに解説するまでもなく、今晩、このところで、この馬子を斬らねばならぬ必要も意趣も、寸分あるのではない。馬子風情を……といったところで、斬った時の斬り心地には、馬子も、大納言も、さして変りあるべしとは思われない。
 この男が馬子を斬ってみようとしたのは、御用金を奪おうという経済の頭から出たのではなく、芝居気たっぷりの片手斬りに大向うを唸《うな》らせようという見得《みえ》から出たのでもなく、はしなく嗾《そそのか》し得たり少年の狂――と春濤がうたった通りの、土地の空気がさせた魔の業と見るよりほかはないでしょう――尤《もっと》もこの男ははや少年の部ではないが、血気はまだ必ずしも衰えたりとは言えますまい――こうして、苦笑いしながら地上に落したところの杖を取り上げて、越中街道の闇に、行先は、ただいま逃げた馬と同じ方向ですが、目的としては、高山の町の目ぬきのあたりへ
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