く笑いかけた棺の中の死肉の主も、また引込みがついたかも知れないのに……
 それに対して、こんな無愛想であるのに、別の因縁になっている棺の上の一重ねの着物だけには、どうやら執着があるらしいのが浅ましいではないか。

         三十八

 こうして、音無の怪物は、死肉には爪牙《そうが》を触るることなく、そのままずっと進んで行きました。
 進み行くところは、宮川の川原を縦に上るのですから、尽くるところはないはずだが、行きとまるところはある。例の蘆葦茅草《ろいぼうそう》の合間合間に、水たまりがあり、蛇籠《じゃかご》があり、石ころがあって、どうしても進み難いところがある。そこは強《し》いては突破しないで廻り道をする、飛び越し得ると推想されるところは飛び越して行く、相当に進んで行ったが、更に別条はありません。
 川原の中だから人通りはなく、さいぜんのような人間の死肉が放り出されているというようなことは、極めて稀有《けう》のことで、この宮川が、神通川《じんずうがわ》となって海に注ぐまでの間にも、二度と出くわすべき性質のものではありません。
 しかし、小さいながら川流れが二筋に分れて、どうしてもそれよりは進めないところに来ました。
 進めないわけではないが、進むには川越しをしなければならぬ。ただ、この場合、衣裳をからげて、川越しをしてまで前進すべきや否やが疑問なのです。果して、その必要がないから後戻りをはじめました。
 蘆葦茅草《ろいぼうそう》が離々《りり》とした石野原――行手でバサバサと音がする。
 無事単調を破るものとしての唯一の物音、それを聞かんがために立ちどまりました。
 ここに、ちょっと注意しなければならぬことは、今まで気がつかなかったが、竜之助はその左の小腋《こわき》に、物を抱え込んでいることです。それはほかのものではない、一着の着物を長たらしく小腋にかい込んでいるのです。ははあ、この男は、あの死肉の上の着物を取って来たのだな。察するに、ただ、無意識に、ひょっと手が触れたままに引抱えた手ずさみだ、笠と杖とを持たない代りのあしらいに過ぎまい。
 面前で起ったバサバサという音は、いよいよ劇《はげ》しくなって、次いで、キャッキャッと名状すべからざる悲鳴が起り、竜之助の脚下で風雲が捲き起っているにはいるが、それは見えない人のために、代って少し説明すると、貉《むじな》がワ
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