らの怪物は、それに調子を合わせるだけの愛嬌《あいきょう》を持ち合わせておりませんでした。それのみならず、その笑いかけたのを、浅ましがっておっかぶせてやるだけの慈悲心も、持ち合わせていないようでした。
 ですから、こうまでして、死人がわざわざ愛嬌を見せても、この怪物に対しては、全く糠《ぬか》に釘のようなもので、お化けがかえってテレきってしまうのです。

 三分五厘子は吾人に教えて言う、
 あるところに、一人ののら[#「のら」に傍点]息子があって、親爺《おやじ》ももてあましたが、望み通りの美しい嫁さんを貰ってやったら、ばったり放蕩《ほうとう》がやんで、嫁さんばっかりを可愛がっている。嫁さんも美しくもあり、情愛もあって、若夫婦極めて円満なのは結構至極だが、ただ一つ解《げ》せないことは、この花嫁さんが、毎夜毎夜、夜更けになると、婿さんの寝息をうかがっては、そっと抜け出して、いずれへか消え失せる、その様、ちょうど、三つ違いの兄さんの女房のするのと同じようなことをする。嫉《や》けてたまらない婿さんが、或る夜、そのあとを尾行して行って見ると、寺の墓地へ行った。あろうことか、その花嫁は墓地へ行って、新仏《にいぼとけ》の穴を発《あば》き、その中の棺の蓋《ふた》を取り、死人の冷えた肉と、骨とを取り出して、ボリボリ食っている、あまりのことに仰天して気絶したお婿さんを、その花嫁さんが呼び生かして言うことには、
「お前さんは、死人の肉を食ったわたしを怖《こわ》いと思いますか。わたしの方では、生きたお父さんの脛《すね》をかじるお前さんの方が、よっぽど怖い」

 事実、死んだものや、化けたものは、そんなに怖いはずはないのです。
 今し、棺の蓋をせっかく細目にあけて、そうして死肉の主《ぬし》が、お愛想に、にっこりと笑いかけたのだから、ほんとうに、こちらも調子を合わせてやればいいのに……「おやおや、おばさんかね、久しぶりだったねえ。あれから、どうしたんだえ。いったい、お前は白骨の無名沼《ななしぬま》の中へ沈められていたはずじゃないか。そんならそうで、無事におとなしく、あの沼に沈着していればいいのに、なんだってこんなところまで出て来て、因果とまたあの火にまで焼かれ損なったのだね。水にも嫌われ、火にもイヤがられ、ほんとに、お前さんというおばさんも、因果の尽きないおばさんだねえ」とでも言ってやれば、せっか
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