けてしまった腰を立てながら、後退《あとずさ》って逃げてしまった男の形が眼に見るようです。それを逃がして追わず、そのあとで竜之助が、歩みよってそこに感得した何物かの物体を撫で廻してみると、それは動かない長い箱でした。つまり、撫でてみてはじめて長い箱の存在を知ったので、最初、立ち止ったのは、ここに白木の長い箱が存在することを怪しんで、そうして、不審とながめている間に、死人が動き出したという順序ではなかったのです。
 撫でてみて、はじめて、かなりに長い箱だと感触したが、それが白木であって、手ざわりからすれば、当然寝棺と気のつくまでに、竜之助の手先に触れたのは、その寝棺の上にふわりと打ちかけてあった、一重《ひとかさ》ねの衣類でした。
 竜之助は、その長い箱が白木であるか、塗物であるか、寝棺であったか、長持であったか、まだわからない。その上にのせられた一重ねの着物のみが手にさわると、
「ははあ、これを盗みに来たのだな、今の奴は、これを盗もうとしてこっちの姿に驚かされたのだ」
とわかりました。

         三十七

 しかし、この長方形の存在物が、人間というものの最後のぬけ殻を入れた器物の一つであったことを覚ったのは、長い後のことではありませんでした。
 それをまだ地中にも葬らず、火中にも置かず、川原の真中へ抛《ほう》り出してあるのだ。生きていないというまでのことで、まだ煮ても、焼いてもないのですから、よろしかったらこのまま召上ってください、と言わぬばかり。
 だが、死肉は食えまい。いかに飢えたりとも、天が特に爪牙《そうが》を授けて、生けるものの血肉を思いのままに裂けよと申し含めてある動物に向って、棺肉の冷えたのを食えよというのは、重大なる侮辱である。
 カタカタと軽くゆるがしてみただけで、この動物は、ついにその中の餌食に向っては、指をさしてみることをも侮辱とするもののようです。だが、カタカタと軽くゆすってみた瞬間に、釘目を合わせておかなかったこの棺と称する人間の死肉の貯蔵所の蓋《ふた》が、二三寸あいてしまいました。
 二三寸あいたところから、意地悪く、その髪の毛のほつれと、冷え固まった面《かお》の白色が、ハミ出して見えたようです。朧《おぼ》ろのような夜光で、見ようによっては、棺の内で貯蔵された死面が、笑いかけたようです。
 ところが、せっかく、死肉が笑い出しても、こち
前へ 次へ
全162ページ中59ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング