る好下物《こうかぶつ》を、気取《けど》ったことは気取ったが、そのものの質を知ることはできないのです。
白木の寝棺を距《へだた》ること、ほぼ一間のところで、立ちどまって、うかがっているのは、その寝息を見るもののようです。
宮本|無三四《むさし》は、佐々木|巌柳《がんりゅう》を打ち倒しても、まだその生死のほどを見極めるまでは、近寄ることをしなかった。それは無三四に限ったことではない、ワナを上手に外《はず》す動物は、どんな好餌《こうじ》があっても、そうガツガツと、いちずには近寄ることをしないものです。
ここに、俄然、一つの食べ物を感得したからといって、一概に貪《むさぼ》りかかることをしないのは、武術の達人の残心のうちの一つと称すべく、知恵ある動物の陥穽《かんせい》を避ける心がけと言ってもよい。それそれ、果して、この寝棺の一端が動き出したではないか。
寝棺が動き出すということが、もう只事ではない。
こっちがその心で、じっと気合を伏せて見まもっていたものだから、先方も、もう我慢がしきれなくなって、化けの皮を現わしてしまったのだ。
死人を入れることにのみ専用するものと見せた寝棺が、生きて動き出した。こういうことがあるから、人を殺せば、血を見なければならないというのだ。敵に斬られることよりも、斬って止めを刺すことを忘れた武士の方が、うろたえ者と言われる。
果然! 寝棺の一端が動き出して、死人が物を言いました、
「御免下さいやす、つい、ほんの出来心でおましてな、悪い気でやったんじゃございませんのや、寒いもんでおますで、女房や子のやつが寒がっておますやでな」
死人がこういって物を言い出したのみならず、ペタリと、石川原の上へ、へばりついてしまって、大地に両手をついて、額《ひたい》をその間に埋めて、ベルゼブルにおわびをするのです。いやまだどっちがベルゼブルだかわからない。
竜之助は、そのお詫《わ》びの言葉を充分に聞き分けてしまいました。
「何をしているのだ」
「どうも、悪い気で致したのやおまへん、焼け出されでおましてな、女房子が寒がるもんやで……つい」
「つい、そこで何をしていたのだ」
「はい……これを一枚だけ、ちょっと、ほんの一晩のうち、お借り申したいことやと存じましてな」
訊問する者も、訊問される者も、わからない。
「では、御免下されましてな……」
ペタペタと砕
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