ナにかかっただけのものです。
後ろ足の一つをワナに挟まれた貉が、必死の悲鳴と、全身の努力を以てそれを脱せんと悶《もだ》えているところです。そうすると、やや暫くあって、他の一方の蘆葦茅草の中から、むずむずと出て来たものがある。それが同じく貉の一つで、前の貉は一足をワナにはさまれている、後の貉は、どこもはさまれてはいないが、見捨てられない愛着に繋がれているらしい。多分一方が雌で、一方が雄なのだろう。
人の足音によって、いったん、離れたが、その足音が止んだらまた出て来て、はさまれないのが、はさまれたのを救済にとりかかっているのだ。しかし、この救済は、徒《いたず》らにうろうろするだけで、ワナにかかった一方の貉の煩悶《はんもん》を救うことも、束縛を解放してやることもできないのです――二つ相抱いて周章狼狽、輾転反側《てんてんはんそく》している。
やがて、いっそう恐ろしい悲鳴と、絶叫との後に、とうとう一方が一方を解放して、そうして二匹相つれて一目散に逃げ出したことです。
さては、ワナが破れた。仮りにも人間の手を経て作られたワナは、さる小動物の蠢動《しゅんどう》によって、左様に容易《たやす》く改廃さるべきものではないのに、二つとも、完全に逃げ了《おお》せたのは、見えない眼前の事実。
だが、完全に――と見たのはウソで、ワナの一方には、一つの小動物の足だけが残っている。これによって見ると、一方が一方の足を喰い切って、そうして連れて逃げたのだ。
逃げて、そうして、一目散に蘆葦茅草を飛び切って、水辺の大樹の上に身をかくしてしまった!
動物学者は、貉と狸とは同じものだというが、伝説の観念はそうは教えない。少なくとも貉は木に登るが、狸は木にのぼらない。狸は腹鼓を打つが、貉にはさる風流気はない。
脚下の風雲というのは、ただそれだけのことでした。
三十九
それから、また暫くあって、例の一重《ひとかさ》ねの衣類を小腋にしたまま、屋形船に帰るところの机竜之助を見ました。
その翌朝、お雪ちゃんは、恥かしいほど朝寝をしてしまいました。眼がさめて見ると、竜之助は宵のほどと同じこと、自分とは、T字形に横になっているのに気がついたが、久助さんの姿は見えません。
久助さんは、もう起きてしまったのだ。昨夜のつもりでは、こんなに落着いて朝寝のできるはずではなかったのに、疲れ
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