大菩薩峠
畜生谷の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)藍色《あいいろ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)祖先|発祥《はっしょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)なさか[#「なさか」に傍点]
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一
今、お雪は、自分の身を、藍色《あいいろ》をした夕暮の空の下、涯《はて》しを知らぬ大きな湖の傍で見出しました。
はて、このところは――と、右を見たり、左を見たりしたが、ちょっとの思案にはのぼって来ない光景であります。
白骨谷《しらほねだに》が急に陥没して、こんな大きな湖になろうとは思われないし、木梨平の鐙小屋《あぶみごや》の下の無名沼《ななしぬま》が、一夜のうちに拡大して、こんな大きな池になろうとも考えられない。そうか知らん――いつぞや、白衣結束《びゃくえけっそく》で、白馬の嶺《いただき》に登って、お花畑に遊んだような覚えがある。ああ、そうそう、あの時に白馬の上で、盛んなる天地の堂々めぐりを見せられて帰ることを忘れたが、では、あれからいつのまに、白馬の裏山を越えて、ここへ来てしまったのかしら。
白馬の裏を越路《こしじ》の方へ出ると、大きな沼や、池が、いくつもあると聞いたが、多分そうなんでしょう。でなければ、越中の剣岳《つるぎだけ》をめざしていたもんだから、ついついあちらの方から飛騨《ひだ》方面に迷いこんでしまって、ここへ来《きた》り着いたのか知らん。
涯しを知らない大きな湖だと思って、あきれているその額の上を見ると、雪をかぶった高い山岳が、あちらこちらから、湖面をのぞいているというよりは、わたしの姿を見かけて何か呼びかけたがっているようにも見られます。
「やっぱり周囲《まわり》は山でしたね、同じところにいるんじゃないか知ら」
この夕暮を、急に真夏の日ざかりの午睡からさめたもののように、お雪ちゃんは、なさか[#「なさか」に傍点]がわからないで、暫く、ぼんやりとして立っていましたが、さて、自分の身はと顧みると、髪はたばねて後ろへ垂らし、白羽二重の小袖を着て、笈摺《おいずる》をかけて、足はかいがいしく草鞋《わらじ》で結んでいることに気がつき、そうして白羽二重の小袖の襟には深山竜胆《みやまりんどう》がさしてあることを、気がつくと、ああ、なるほど、なるほど、間違いはありません、白馬からの下り道に違いはありません。
ただ四辺《あたり》の光景が、こんなふうに変ってしまったのは、下り道を間違えたせいでしょう。それにしても、ちょっとも疲れていない自分の身を不思議だと思いました。
どうも、なんだか、この白い小袖が、鶴の羽のようにふわりと空中に浮いて、白馬の頂《いただき》からここまで、自分の眼は眠っている間に、誰かが、からだをそっと持って来て置いてくれたもののようにも思われ、やっぱりすがすがしい心のうちに、なんとなく暖かな気持で、お雪ちゃんは岩の上に腰をかけて、涯《はて》しも知らぬ大きな湖の面の薄暗がりを、うっとりと眺めつくして、それ以上には、まだ何事をも思い浮べることも、思いめぐらすこともしようとはしません。
その時鐘が一つ鳴りました。その鐘の音が、お雪ちゃんのうっとりした心を、よびさますと、あたりの薄暗がりが気になってきました時、湖の汀《みぎわ》の一方から、タドタドと人の歩んで来る姿を朧《おぼ》ろに認めたお雪ちゃんは、じっとその方を一心に見つめていましたが、夕もやを破って、その人影がようやく近づいた時、
「あ、弥兵衛さんだ、弥兵衛さんが来る」
とお雪ちゃんが叫びました。
朧ろながら、それと見えるようになった人の姿は、背に何物かを背負うて、杖をついて、かるさん[#「かるさん」に傍点]のようなものを穿《は》いた一人の老人に紛《まぎ》れもありません。
その老人は、湖畔をめぐって、お雪ちゃんの休んでいる方へと、杖をつき立ててやって来ましたが、いよいよ程近いところまで来ると、お雪ちゃんがまず言葉をかけました、
「弥兵衛さんですか」
「はい、弥兵衛でござんすよ」
こちらが弥兵衛さんと呼び、あちらも弥兵衛さんと答えるのだから、これは弥兵衛さんに間違いはありますまい。
二
してみれば、お雪ちゃんは、とうにこの弥兵衛さんを知っていて、弥兵衛さんもまた、お雪ちゃんに頼まれるかなにかしていた間柄とみなければなりません。
しかしながら、白骨へ来て以来の、お雪ちゃんの知合いには、曾《かつ》て弥兵衛さんという人は一人も無いから、これは、このたびの山道に、臨時にやとった山の案内者か、強力《ごうりき》かなにかであろうと思われます。
「わたしは弥兵衛さんだとばっかり思ったら、やっぱり弥兵衛さんでしたわ」
「はい、その弥兵衛でございますよ」
と言って、至りついた老人は、お雪ちゃんの前へ来ると、腰をのばして、反《そ》りを打ち、そこへ突立ってしまいました。
「まあ弥兵衛さん、どうしてこんなところへおいでなすったの」
「はい、わたしは、ここからあんまり遠くないところに住んでいるのでございますよ」
「そうですか、ちっとも知らなかったわ」
「はい、はい」
お雪は突立っている弥兵衛老人の頭から爪先まで、今更のように極めて興味深く見上げたり、見下ろしたりしていました。
「ほんとうにそっくりよ」
「何でございます」
「弥兵衛さんに、そっくりよ」
「何をおっしゃります」
どうも、ばつの合わないところがあります。弥兵衛さんが、弥兵衛さんにそっくりだということは、別段、念を押すには及ばないことだろうと思われるのに、お雪には、これは容易ならぬ興味の的であるようです。
それにもかかわらず老人は、極めて無表情に突立って、背に負うたものを、さも重そうにしていました。
この空気を見ると、お雪ちゃんと、弥兵衛さんとは全く他人です。曾《かつ》て知合いになっていたのでもなければ、この際頼んだ人でもない、単に呼び名だけが暗合したようなもので、そのほかには、なんらの共通した感情も、理解も、漂うては来ないらしい。
そこで、お雪ちゃんは、極めて手持無沙汰に、それでも、充分なる興味の眼は弥兵衛老人からはなすことではなく、無言に見詰めていますと、この老人は、さながらお雪ちゃんに興味を以て見つめられているために、ここに現れて来たもののように、どこからでも存分に御覧下さいと言わぬばかりに、いつまでもじっと立ちつくしているのです。そうしているうちに、弥兵衛さんの輪郭が、最もハッキリしてきました。
何のことだ――これは弥兵衛は弥兵衛だが、只の弥兵衛ではない、平家の侍大将、弥兵衛兵衛宗清《やへえびょうえむねきよ》ではないか。
弥兵衛兵衛宗清の本物を、お雪ちゃんが、いつ見知っていた? それは申すまでもなく、弥兵衛宗清は弥兵衛宗清だが、それは生《しょう》のままの平家の侍大将ではなく、お雪ちゃんが江戸見物に行った時分に見た、小団次だったか、松助だったか知らないが、その頃の名人役者のした弥兵衛宗清が、義経公のために、「弥兵衛兵衛宗清、暫く待て」と呼びとめられて、ギクッと胸にこたえながら、しら[#「しら」に傍点]を切る弥兵衛さん――最初から、それに違いないと気がついたから、さてこそ弥兵衛さんと、旧知の思いをもって呼びかけてみたら、それが全く的中してしまったまでのことです。
今、弥兵衛さんの重そうに背負っているもの、それが、やっぱりお誂《あつら》え通りの鎧櫃《よろいびつ》と見えました。それを卸しもやらずに、立ちつくしている老人を気の毒だと思いましたから、親切なお雪ちゃんが、
「弥兵衛さん、重いでしょう、それをここへ卸して、少しお休みなさいな」
「はい、有難うございます、ではお言葉に従いまして」
と言って、弥兵衛は、これは制札ではない杖を置き、砂の上へ鎧櫃《よろいびつ》をどさり落した途端に、腰が砕けてまた立て直すところの呼吸なんぞ、ちい[#「ちい」に傍点]高の舞台でする調子そっくりでしたから、お雪ちゃんはわけのわからないながら、ほほえまずにはいられません。
三
老人が、やっと重い鎧櫃を下に置いて、ホッと息をつき、お雪ちゃんの横の方に腰を卸して煙草をのみはじめたものですから、自然お雪ちゃんは、親しく話しかけないわけにはゆきません。
「お爺《じい》さん、あなたは平家の落武者なんでしょう」
「へ、へ、へ」
弥兵衛老人は人相よく笑って、
「山奥へ行きますてえと、どこへ行っても、平家の落武者はいますねえ」
「でも、お前さんこそ、本当の落武者なのでしょう」
「やっぱり、先祖はね、そんな言いつたえもあります、珍しい遺物も、残っているにはいますがねえ」
「どこなんですか、お住居《すまい》は」
「あの山の裏の谷です」
「え」
「そら、あの真白い、おごそかな山が、北の方に高く聳《そび》えておりましょう、御存じですかね、あれが加賀の白山《はくさん》でございますよ」
「まあ、あれが加賀の白山でしたか」
お雪はいま改めて、群山四囲のうち、北の方に当って、最も高く雪をかぶって、そそり立つ山を惚々《ほれぼれ》と見ました。
「はい、あの白山の山の南の谷のところに、わしらは一族と共に、六百年以来住んでおりますでな」
「きまってますよ、平家の落人《おちうど》にきまってますよ、白川郷っていうんでしょう」
「はい、その白川郷の……」
「白川郷は、いいところですってね」
「え、いいところにも、悪いところにも、先祖以来、わしどもは、その白川郷から足を踏み出したことがございませんから、比較するにも、比較すべきものを持ちませんでな」
「自分が住んでいて、いいか、悪いか、わからないくらいのところが、本当にいいところなんでしょう。全く悪いところはお話になりませんが、ああいいところだと思えば、きっとドコかに悪い影がさすものです。永年住んでいて、いいところか、悪いところか、わからないくらいのところは、本当にいいところにきまっていますねえ」
「そんなものかも知れませんが、まあいいところとしておきましょう」
「実はねえ、お爺《じい》さん、わたしもその白川郷というところへ行って、一生を暮らしてしまいたいと思っているのよ」
「そうですか」
「平家の公達《きんだち》も、そこに落ちて、居ついているくらいですから、わたしなんぞも、住めないはずはないと思います」
「それは住めば都と申しましてな、お天道様の照らすところ、草木の生えるところで、人間が住んで住めないという土地はございませんけれど、お嬢さん、買いかぶってはいけませんよ、平家の公達だって、白川郷が住みよいからそこへ来たわけではありません、それは花の都に栄耀《えいよう》栄華を極めているに越したことはございますまいけれど、居るには居られず、住むには住まわれないから、よんどころなく、こんな山奥の奥へ落ちて来たものでしょう、それを夢の里か、絵の国でもあるように、憧《あこが》れて、わざわざ住みにおいでなさろうなんぞというのは、お若いというものです。平家の公達は命がけでございました、ほかの世界には生きられないから、この白川郷へ来たものでござんすよ」
「それはわかっててよ、わたしたちだって、同じ心持ですわ、どこへ行っても安心して住めるところがないから、一生をその白川郷へ埋めてしまいたい、という真剣な心持がお爺さんにはわからないの?」
「ははあ、お若いに、どうして、そうまで突きつめておいでですね」
「何でもいいから、わたしたちは、誰もさまたげることのない世界へ住みたいのです、ほかに希望《のぞみ》もなにもありゃしません。白骨谷だって、人が来てあぶなくってなりませんもの。どうしても白川郷へ行きますよ、単にあこがれや、物好きの沙汰《さた》ではありません。お爺さん、後生ですから白川郷へ行く道を教えて下さいな」
四
「それは教えて上げない限りもございませんが、白川郷へ行く道は、並大抵の道ではありませんよ、まあ、あの白山をごらんなさい」
「はい」
「富士
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