の雪は消える時がありましても、白山の雪は消えることがございません、あの高い峻《けわ》しいところを、ずっとなぞいに左の方をごらんなさい、滝が見えましょう」
「え、え」
お雪ちゃんは瞳《ひとみ》をこらして、老人の指さすところを見ると、なるほど、山の腰のあたり、山巒重畳《さんらんちょうじょう》するところに、一条の滝がかかってあるのを明らかに認めます。ここで見てあのくらいだから、傍へよったらどのくらいの大きさの滝だかわからないと思いました。
「あれが、加賀の白山の白水《はくすい》の滝でございます、有名な……」
「まあ、そうですか」
「その白山の白水の滝が落ちて流れて、この白川の流れになるのでございます」
「ずいぶん大きな滝ですこと、ここで見てさえあのくらいですから」
「高さが三百六十間ありまして……」
「まあ……」
「滝より上が白水谷《はくすいだに》、滝より下が大白川《おおしらかわ》、白山の神が白米をとぐために、水があんなに白くなると言われます。その上下を通じて白川の山々谷々の間にあるのが、俗にいう白川郷でして、一口に白川郷とは言いますが、あれで四十三カ村でございますよ」
そこで、お雪はそのうちの、どの村へという当てはないのでした。老人も、それをたしかめようとはしないが、
「で、あの白水の滝のあるところまでは、これからどのくらいありますか、あそこまで行ってみたいと思います」
「それはいけません」
「どうしてですか、道がないのですか」
「道はあります、道はありますけれども、女は行ってならないことになっておりますのでございますよ」
「それは、またどうしてでしょうか」
「あそこに千代《ちよ》ヶ坂《さか》というのがありましてな、八石平《はっこくだいら》からあちらは、女は忌《い》んで、通ってはならぬことになっているのを、千代という若い女の方が強《し》いて通りましたところ、翌日になると、その坂の木の枝に、女の五体がバラバラになって、かけられておりましたということで、それから、あれを千代ヶ坂と名附け、あの辺は決して女の方は近寄れないことになっております」
「まあ、それは本当ですか」
「それは古来の言い伝えでございますけれども、わしらが覚えてからも一つございました、ある坊さんが、あの温泉で眼を癒《なお》そうとしまして、尼さんを一人つれて参りましたが、そのせいでしたかどうでしたか、急に雨風が烈しくなって、とうとうその尼さんの行方《ゆくえ》がわからなくなりました」
「え、それでは、あの滝の下あたりに、やはり眼によい温泉があるのですか」
「ありますとも、白山三湯《はくさんさんとう》と言いまして、そのうちにも楢本《ならもと》の湯というのは、眼病、そこひ[#「そこひ」に傍点]のたぐいには神様のようだそうです」
「そのお湯へも、女は行ってはいけないのですか」
「え、あれから先は只今申し上げた通りです、行って行けないことはございませんが、行けば必ず祟《たた》りがあると言われていますから、おいでにならない方がよろしうございましょう」
「お爺さん、わたしは、どうも、そういうことは嘘だと思います――男だって、女だって、同じ人間ではありませんか、女は罪が多いと言いますけれども、男にだって罪の少ない者ばかりはありません、たまに女が災難に逢うと眼に立ち易《やす》いから、それ見ろと笑いものにしますけれど、男だって盗賊に逢って、林の中で斬られた人も幾人もありましょう、雨風のために行方知れずになったものも、ずいぶんありましょうと思います。ですから、わたしは、行って行けないことはないと思いますが、それはそれとして、お爺さん、いやな名前ですけれども、この白川郷のうちに、畜生谷というところがあるそうですね」
そう言った時に、老人の面《かお》に、何とも言えぬようないや[#「いや」に傍点]な色が現われたので、お雪ちゃんがハッとしました。
五
その何とも言えない、いや[#「いや」に傍点]な色を見て、お雪ちゃんは急に、言わでものことを言ってしまったと、自分ながら気の毒と、それから一種の羞恥心《しゅうちしん》というようなものに駆《か》られ、我知らず面を赧《あか》らめて、だまってしまいました。
畜生谷と言われて、何とも名状し難い嫌な色を、面に現わした老人は、暫くうつむいていましたが、
「人は、いろんなことを言いますねえ。それは、広い世界とはかけ離れたこの谷々の間のことですから、風俗も、それぞれ変ったことがございましょうよ」
「でも、畜生谷なんて、いやな名前ですねえ、ほんとに」
と、お雪は慰めのような気分で、老人に向って言いかけたことほど、老人の不快な色を気の毒に思ったからです。気の毒に思ったといううちには、もしかして、この老人が、その世間の人の悪口に言われる畜生谷の部落の中の一人ではなかったか、ということに気が廻ったことほど、胸を打たれたものがありましたからです。
そこで、お雪は、もう再びこの老人の前で、そんな言葉を口にすまいという気になりました。その老人の前だけではなく、どんなところでも、人前でうっかり、畜生谷なんていう言葉を出すものではない、ついついそれに言葉がわたった自分というものの嗜《たしな》みの浅いことを、一方《ひとかた》ならず慙《は》じもし、悔いもする心に責められました。
そこで、半ばはその思いをまぎらわすようにお雪は、
「それはそれとしまして、ねえおじいさん、わたしは今、誰が何と言いましても、その白川郷の中へ、落着きたい心持でいっぱいなのよ。人が世間並みに生きて行きたいというのは、義理人情にせまられるか、そうでなければ利慾心にからまれて、どうしても、そうしなければ生きて行かれないからなんでしょう、わたしは、そんなことはあきらめてしまいました、といっても、死ぬのはいやなのです、生きて行きたいのです、静かに生きて行きたいのです。そんなら、わたしを静かに生きて行かせないのは何者でしょう。それはわかりません、誰もわたしを縛っているのではないけれども、わたし自身が縛られているような気持で、あの静かな白骨谷でさえが、わたしを落着かせてはくれないのです。白川郷ならば、全く浮世のつまらない心づかいから離れて、生きられるように生き、何をしようとも、他人様《ひとさま》にさえ手を触れなければ、思いのままに生きて行ける世界――他人様もまた、それぞれ、思うままのことをしながら、自分たちも生き、わたしたちをも、生かせて行ってくれる世界――それが欲しいのです。白川郷には、その世界が、立派にあるそうです。なんでもかんでも、許してもくれ、許しもする世の中、それで人間が、気兼ねなしに生きて行かなければならないはずじゃありませんか」
「それは人間の世界じゃなく、それこそ畜生道というものじゃありませんかねえ、お嬢さん」
と言って、老人が反問したので、
「え」
とお雪が驚かされました。
「人間の生きて行く道よりは、畜生のいきて行く道の方が、気兼ね苦労というものが、かえって少ないのじゃありますまいか、ねえお嬢さん」
「何ですって、おじいさん――もし人間の生きて行く道が、つまらない気兼ね苦労ばかりいっぱいで、畜生の道が素直で、安心ならば、わたしはいっそ……」
「何をおっしゃります、お嬢さん、それが、あなた方のお若いところです……あの白山へ登るよりは、この白水谷を下る方がずっと楽には楽なんですがね」
と言って老人は立ち上り、砂上に置き据えた鎧櫃《よろいびつ》に手をかけた時、お雪が急に、そわそわとして、
「おじいさん――まあ待って下さい、急に気がかりなことがありますから、その鎧櫃の中を、ちょっとでいいからわたしに見せて下さいな、今になって気がつくなんて、ほんとに、わたしはどうかしています」
六
お安い御用と言わぬばかりに、弥兵衛老人が鎧櫃の蓋《ふた》を取って見せると、井戸の底をでも深くのぞき込むように、お雪は傍へ寄って、
「わたしが頼んでおきましたのに、今まで忘れていました、さぞ、御窮屈なことでしたろうにねえ」
鎧櫃の中には、人の姿がありありと見えているのであります。
「先生、ずいぶん御窮屈でございましたでしょうねえ」
人の姿は見えているけれども、返事はありません。
「先生」
やはり手ごたえはない。
「おや!」
お雪は一方ならずあわて[#「あわて」に傍点]ました。
「先生、お休みでございますか」
でも、やっぱり何ともいらえがない。
「ほんとうに……眠っておいでなさるんでしょうか、先生」
お雪は狼狽《ろうばい》の上に、不安の心をうかべて、井戸側深くのぞき込むようにすると、人の姿はいよいよ、ありありと見えるけれども、一向にうけこたえのないことが、またいよいよ明瞭であります。
本来、鎧櫃の中というものは、一匹一人の人間を容れるには足りないものであります。せいぜい十代の少年ならばとにかく、普通の大人一人が、鎧櫃の中にいることは至難の業であります。ましてその中で酣睡《かんすい》を貪《むさぼ》るなどということは、あり得べきことではありません。
それだのに、ありありと見える中の人は、立派な一人の成人であって、それは身体骨柄《しんたいこつがら》痩《や》せてこそいるけれども、月代《さかやき》はのびてこそいるけれども、押しも押されもせぬ中年の男性が、身にはお雪と同じような白羽二重に、九曜の紋のついているのを着て、鎧櫃の一方の隅に背をもたせかけて、胡坐《あぐら》をくみ、そうして、蝋鞘《ろうざや》の長い刀を、肩から膝のところへ抱くようにかいこみ、小刀は腰にさしたままで、うつむき加減に目をつぶっているのであります。さばかり、窮屈な鎧櫃の中に、かなりゆったりと座を構えて崩さないところを見れば、眠っているものに違いあるまいが、眠っていたとすれば、こうまで呼びかけられて、さめないはずはありますまい。
お雪が、狼狽し、且つ不安に堪えぬ色をあらわしたのは、あまり深い眠りに驚かされたのみならず、その眠っている人の面《かお》の色の白いこと、さながら透きとおるほどに見えたからなのでしょう。
「先生、どうぞお目ざめ下さいまし、わたしが冗談《じょうだん》におすすめ申して、この鎧櫃の中へ、あなたがお入りになれば、わたしがおぶって上げて、白川郷までまいりますと申し上げたのを、いつのまにか、あなたは本当にこの中へお入りになりました。わたしは、まさか、あなたがこの鎧櫃の中へお入りになろうとは、思いませんでした。どなたにしても一人前の大人が、この中へ納まりきれるものではないと安心しておりましたのに、もしやと気がついて、あけて見ると、この有様です。ほんとうに御窮屈なことでしたろう、ささ、どうぞ、お目をお醒《さ》まし下さいまし」
と、のぞき込んだ顔を、押しつけるようにして呼びましたが、その人は、ガラス箱の中に置かれた人形のように、姿こそは、ありありとその人だが、返答がなく、表情がなく、微動だもありません。そのくせ、蝋のような面《かお》の色が、みるみる白くなってゆくものですから、お雪は、自分の身体そのものが、ずんずん冷たくなってゆくような心地がして、
「先生、焦《じ》らさないように願います、わたし、心配でたまりません、後生《ごしょう》ですから、お目ざめくださいまし。それとも、もしや、あなたは……生きておいでなのでしょうね、もしや……もしや、もしや」
お雪は、ついに鎧櫃にしがみついて見ると、これは透かし物のような鎧櫃の前立《まえだて》の文字に、ありありと、
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「俗名机竜之助霊位」
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「おや――」
――お雪はついに声をあげて叫びました。
七
「どうしたのです、お雪ちゃん」
事はまさに反対で、声の限り人を呼びさまし、呼びさますことに絶望の揚句、絶叫したその声を聞いて、かえって呼びさまされたのは、当のお雪ちゃんで、呼びさましたその人が、鎧櫃《よろいびつ》の中にあって、返答もなく、表情もなく、微動もなく、蝋《ろう》のように面《かお》の色の
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