ものではございませぬ」
 これもまた、極めて平明な事実でありましたけれど、尾張の国人《くにびと》として、こう言われてみれば、悪い気持もしないと見えます。平凡ではあるが、辞令としては巧妙といわねばなりません。聴衆はいよいよ神妙に聞き入ってくる。道庵はいよいよ固くなる。
「そこで、拙者は、当国へ足を踏み入れますると共に、まず、すべてのものに御無礼をして、まっ先に、愛知郡中村の里を訪れました。そこは豊太閤及び加藤肥州の生れた故郷とかねて承っておりまするところから、幼少時代よりのあこがれが拙者を導きまして、当国へ足を踏み入れると直ちに、取る物も取り敢《あ》えず、中村へ馳《は》せつけて、そこで、心ばかりの供養を捧げて『英雄祭』の真似事を試みまして、そうして、後にこの名古屋の城下に御見参に参った次第なのでございます。つづいて、信長、頼朝の諸公と遡《さかのぼ》って、心ばかりの回向《えこう》と供養を捧げたいと心がけておりまするうちに、皆様の御好意を以て、数ならぬ道庵に対し、今日も、明日もと、お招き下さる御好意に甘え、ついまだそれを果す機会がございませんが、かく幼少よりあこがれの英雄の本場に来《きた》り、かく皆様の多大なる御好意に浴すること、返す返すも感謝に堪えない次第で、何を以て、この御好意に酬《むく》いんかに、ホトホト迷い切っている次第でございます……つきましては、拙者が当地に於て、ホンの僅かの日子ではございますが、その間に、多少の見聞によって、感じましたことを、私が申し上げて御参考に供したいと存じます。もとより浅見にして寡聞《かぶん》、お腹の立つような申上げようも致すかもしれませんが、これも他山の石として御聴取を願い得れば、光栄の至りでございます」
 ここまで異状なく、道庵が述べて来ました。やはり、聴衆は神妙で、水を打ったような静かさですから、道庵の方でつい持ち切れず、とうとう力負けがしてしまいました。
 実際、道庵の演説には、弥次が出なければ、演説者自身の方で持ち切れなくなるのです。

         四十八

「さあ、いいかね、これから思いきったところをズバズバ言うよ、腹あ立っちゃいけねえよ、良薬は口に苦しといってね、いい医者ほど苦い薬を飲ませるんだぜ。これから、遠慮なく、思ったところをズバズバ言うからね、苦いと思ったら、道庵は、さすがに医者だと思ってくんな――」
 ガラリとこう変ってしまったのには、並みいる神妙な聴衆が、あっ! と、あいた口がふさがりませんでした。
 もうこうなっては、こっちのもので、謙遜や辞令なんぞは、フッ飛んでしまいました。
「いいかね、そんなようなあんばいで、なるほど、この尾張の国は英雄の本場には違えねえが、それはとっくの昔のことで、その後になって、古人に恥じねえほどの英雄がどこから出たえ、出たらお目にかかろうじゃねえか。それのみならず、尾張の国は、それほどの英雄を自分の土地から出しながら、それを尊重する所以《ゆえん》を知らねえ。だから、あとから、あとから、ボンクラが出て来るのは争えねえのさ。嘘だと思うなら、尾張の中村へ行ってごらん、どこに、豊臣太閤という日本一の英雄を生んだ名残《なご》りが残っているんだエ。ああして、草ぽっけにして、抛《ほう》りっぱなしにして置いてさ、他国者のこの道庵風情に――十八文の道庵だよ、この十八文風情にお祭りをしてもらって、それを土地の者が珍しがるという有様じゃ、お話にならねえじゃねえか。そのくれえだから、おめえ、近頃は英雄なんていうやつが、この界隈から薬にしたくも出なくなったんだ。地形は昔に変らないんだよ、山川《さんせん》開けて気象|頓《とみ》に雄大なるこの濃尾の天地は、信長や、秀吉のうまれた時と大して変らねえのに、人間というやつが腑抜けになって、英雄豪傑の種切れだ。たまにおめえ、大塩平八郎だの、細井平洲だのという奴が出て来れば、みんな他国者に取られてしまう。なんと情けねえじゃねえか、ひとごととは思えねえよ」
 こういうまくし方では、半畳を飛ばす隙もなかったと見えます。
 一座があいた口が塞がらずに、道庵の面《かお》ばかりパチクリと見つめている体《てい》は、笑止千万です。
 それを道庵は委細かまわずに、ぶっつづけました。
「英雄豪傑なんぞは、乱世の瘤《こぶ》のようなものだから、そんなものは厄介者で、いらねえと言えばそれまでだが、国に人物が出なければ、その国の精が抜けてしまった証拠なんだぜ。気の毒ながら、尾張の国も精が抜けたね、山川は昔に変らねえが、人間の方は、どうしてそう急に精分が抜けたのか――それにはまた一つの原因がある――」
 この辺へ来て、はじめて道庵も、いくらか平静に返り、昂奮からさめたように、調子もいくぶん穏かになって、歴史を典拠として論じはじめました。
 それは、尾州家は最初のうちは英主が出たが、いけなくなったのは五代|継友《つぐとも》あたりからのこと。それは例の徳川八代将軍の継嗣問題《あとつぎもんだい》で、当然、入って将軍となるべく予想していた尾州家が、紀州の吉宗のためにしてやられ、それから自棄《やけ》となって、折助政治をやり出した、それがいけないということを、道庵は婉曲《えんきょく》に歴史を引いて論じてきました。
 将軍職を紀州に取られてから、継友が自棄となり、放縦となり、幕府に対しての不満が、消極的に事毎に爆発し、ついに幕府は間者を侍妾として送り、継友を刺殺せしめたとの説がある――継友が夭死《わかじに》して、宗春の時になると、吉宗の勤倹政治に反抗するために、あらゆる華奢惰弱の風を奨励した時から、いよいよ精分が抜けてしまった。もう、そうなっては、英雄なんぞは出ろといったって、こんなところへ出て来やしねえ。出て来るものは、女郎屋と、酒場と、踊りと、お祭礼《まつり》と、夜遊びと、乱痴気だけのものだ。
 まあそれでも、本家の徳川にまだ脈があったから、尾張だけが腑抜けになっても、亡びはしなかったがね――もうそれからは、ぬけ殻のようなものさ……
 この辺まで道庵にたわごとを述べさせていた聴衆も、「ぬけ殻のようなものさ」と言われた時に憤然として、もう許せない、という色が現われました。

         四十九

 はじめは神妙に聴き、中頃少し調子が変だなと思いながら、お愛嬌に聞き流していたが、ようやく進むに従って、義理にも、我慢にも、許せない気色を、ここの聴衆が現わしたのは無理もないことです。
 おや、酔ってらっしゃるんだな――と思って見たが、酔っているにしても、容易ならぬ暴言である。名古屋に人間無きかの如くコキ下ろすのはいいとしても、ここの城主、御三家の一なる御代々をとらえて、噛んで吐き出すようなる悪態が口をついて来たものだから、老巧なのが咳払いをしたぐらいでは追附かず、
「こいつは途方もない」
「馬鹿!」
「気狂《きちが》いだっせ――」
 場内ようやく騒然として、掴《つか》みかかる勢いを為したものが現われ出したのは、それはまさに、そうあるべきことで、温厚なる医者と、学生を中心とした席であればこそ、ここまでこらえて来たようなものです。
 道庵の暴言は、まことに容易のならぬものであるが、一方から言えば、司会者の責任でもあるのです。司会者は事重大と見て、あわてて道庵を演壇から引き下ろしにかかりました。つづいて、二人、三人、やがて総立ちとなって、道庵の処分にとりかかったので、風雲が急になって、道庵の身が危ない。
 事態が全く不穏に陥った時、この騒動が、意外な出来事に転嫁されるようになったのは、道庵にとっては全く助け船でありました。
「熊が出た! 熊だ! 危ない! 熊だ!」
という叫喚が聴衆の後ろの方から起って、道庵|膺懲《ようちょう》のために総立ちになった聴衆に裏切りが出たもののように、まずその声のする方からなだれを打ったのは、思いがけない出来事です。
 先を争うて逃げ迷い、わめき叫ぶ有様は、只事ではありません。
「熊だ――」
「熊だナモ――」
 その大混乱を突破して、なるほど、小さくはあるが、まだ子供ではあるが、一頭の熊がこの席へ野放しに闖入《ちんにゅう》して来たことは、疑うべくもありません。
 人間が驚くが故に熊も驚きます。人間がつかまえようとするから、熊は逃げ惑うのでしょう。道庵によって風雲を捲き起したこの席が、熊の子によって蹂躙《じゅうりん》されてしまっています。
 今や、道庵の暴言、失言問題はカッ飛んでしまい、猛獣の闖入は、集まるものの生命問題でした。逃げ迷うものの狼狽は、見るも悲惨の至りです。
 だが、熊としては、人間に危害を加えに来たものでもなく、危害を加えた形跡もありません。
 何かの拍子で、檻を放れたのが、気紛《きまぐ》れにこの席へ姿を現わしたまでのようです。それを人間が狼狽するから、熊もまた狼狽しているものに相違ない。
 熊は、盛んに群衆の中を走っているのは、群衆を追わんがためでなくして、その逃げ口を見出そうとしているものに相違ありません。しかるに人は、それに逃げ口を与えないから、自分の逃げ口も失ってしまい、押し合い、へし合いの混乱で、悲鳴をあげているもののうちには、熊によって害を受けずして、人間によって踏み敷かれつつあるものが多数のようです。
 かくて、熊はさんざんに荒《あば》れ、人はさんざんに蹂躙し合って、名状すべからざる混乱状態を現わしているうちに、道庵の姿も、いつのまにか演壇から没して、逃げたのか、つまみ出されたのか、それとも群衆に踏みつぶされてしまったのか、影も、形も、見えないという有様です。
「騒ぐな、騒ぐな、どうもしやしねえよ、おとなしい熊だよ、みんなが騒ぐから驚くんだ、どうもしやしねえ」
 群衆の後ろにあって、かく呼びかけつつ混乱をなだめんとする声は、まさしく宇治山田の米友の声であります。

         五十

 江戸の方面に於ては、道庵牽制運動のために、安直先生と、金茶金十郎とを特派するために、オール折助連が盛んな送別会を催して、その行を壮《さか》んにすることになりました。
 会場は、湯島の千本屋《せんぼんや》。
 当日の正客は、安直と、金十郎。
 安直先生も、今日は、いつものマアちゃんとは違うぞという気位で、羽織、袴に威儀をただして、相生町《あいおいちょう》の碁所《ごどころ》へでも出かけるような装いに、逆薤《ぎゃくらっきょう》の面《かお》を振り立て、大気取りに気取って正面の席につきました。
 相客の金茶金十郎は、大たぶさに浅黄服――押しも押されもせぬお国侍の粋を現わしたものです。それで、当日の幹事はプロ亀でありました。プロ亀は盛んにお太鼓を叩いて、安直の提灯《ちょうちん》を持ち、安直が武芸十八般にわたり、囲碁将棋の類《たぐい》まで通ぜざるところなく、当代、道庵の右に出でる者は、この安直を措《お》いてほかには無いということを、ことごとく紹介しました。
 斯様《かよう》に讃められても安直は、ぎゃくらっきょう[#「ぎゃくらっきょう」に傍点]をうなだれて、あまり多くの口数を利《き》かずに控えて、あっぱれ折助連の代表だけの貫禄のあるところを見せましたが、金十郎は、おれも負けてはいないぞという気になって、二本差を二本ながら抜いてしまい、これを振り廻して、これが左青眼だとか、右八双だとかいって、型をつかって見せましたから、会衆がみんな大喜びで、
「なるほど、金十郎氏は強い、武術の型を心得ていることでは日本一だ、金十郎氏が、安直先生の傍へ控えていてくれるので、全く心強い」
 そのうちに、無礼講となって、オール折助連の芸尽しです。
 やがて、芸者が出て来て、皿小鉢を叩きはじめました。
 その中でも、老妓の糸助に、皿八というものが、正客の安直と、金十郎の前へ現われ、皿八がドンブリを叩き、糸助が、すががきを弾いて、
「おきんちゃ金十郎、コレきんちゃ金十郎」
と皿八がうたいながら、コンコンカラカラコンコンカラカラと、丼《どんぶり》の音をさせたものだから、さっきからいい気持になっていた金十郎が嬉しくてたまらず、やにわに、すっぱだかになって踊り
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