猛獣の闖入は、集まるものの生命問題でした。逃げ迷うものの狼狽は、見るも悲惨の至りです。
 だが、熊としては、人間に危害を加えに来たものでもなく、危害を加えた形跡もありません。
 何かの拍子で、檻を放れたのが、気紛《きまぐ》れにこの席へ姿を現わしたまでのようです。それを人間が狼狽するから、熊もまた狼狽しているものに相違ない。
 熊は、盛んに群衆の中を走っているのは、群衆を追わんがためでなくして、その逃げ口を見出そうとしているものに相違ありません。しかるに人は、それに逃げ口を与えないから、自分の逃げ口も失ってしまい、押し合い、へし合いの混乱で、悲鳴をあげているもののうちには、熊によって害を受けずして、人間によって踏み敷かれつつあるものが多数のようです。
 かくて、熊はさんざんに荒《あば》れ、人はさんざんに蹂躙し合って、名状すべからざる混乱状態を現わしているうちに、道庵の姿も、いつのまにか演壇から没して、逃げたのか、つまみ出されたのか、それとも群衆に踏みつぶされてしまったのか、影も、形も、見えないという有様です。
「騒ぐな、騒ぐな、どうもしやしねえよ、おとなしい熊だよ、みんなが騒ぐから驚くん
前へ 次へ
全163ページ中158ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング