ものではございませぬ」
 これもまた、極めて平明な事実でありましたけれど、尾張の国人《くにびと》として、こう言われてみれば、悪い気持もしないと見えます。平凡ではあるが、辞令としては巧妙といわねばなりません。聴衆はいよいよ神妙に聞き入ってくる。道庵はいよいよ固くなる。
「そこで、拙者は、当国へ足を踏み入れますると共に、まず、すべてのものに御無礼をして、まっ先に、愛知郡中村の里を訪れました。そこは豊太閤及び加藤肥州の生れた故郷とかねて承っておりまするところから、幼少時代よりのあこがれが拙者を導きまして、当国へ足を踏み入れると直ちに、取る物も取り敢《あ》えず、中村へ馳《は》せつけて、そこで、心ばかりの供養を捧げて『英雄祭』の真似事を試みまして、そうして、後にこの名古屋の城下に御見参に参った次第なのでございます。つづいて、信長、頼朝の諸公と遡《さかのぼ》って、心ばかりの回向《えこう》と供養を捧げたいと心がけておりまするうちに、皆様の御好意を以て、数ならぬ道庵に対し、今日も、明日もと、お招き下さる御好意に甘え、ついまだそれを果す機会がございませんが、かく幼少よりあこがれの英雄の本場に来《きた》り
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