来てしまったのかしら。
 白馬の裏を越路《こしじ》の方へ出ると、大きな沼や、池が、いくつもあると聞いたが、多分そうなんでしょう。でなければ、越中の剣岳《つるぎだけ》をめざしていたもんだから、ついついあちらの方から飛騨《ひだ》方面に迷いこんでしまって、ここへ来《きた》り着いたのか知らん。
 涯しを知らない大きな湖だと思って、あきれているその額の上を見ると、雪をかぶった高い山岳が、あちらこちらから、湖面をのぞいているというよりは、わたしの姿を見かけて何か呼びかけたがっているようにも見られます。
「やっぱり周囲《まわり》は山でしたね、同じところにいるんじゃないか知ら」
 この夕暮を、急に真夏の日ざかりの午睡からさめたもののように、お雪ちゃんは、なさか[#「なさか」に傍点]がわからないで、暫く、ぼんやりとして立っていましたが、さて、自分の身はと顧みると、髪はたばねて後ろへ垂らし、白羽二重の小袖を着て、笈摺《おいずる》をかけて、足はかいがいしく草鞋《わらじ》で結んでいることに気がつき、そうして白羽二重の小袖の襟には深山竜胆《みやまりんどう》がさしてあることを、気がつくと、ああ、なるほど、なるほど
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