う空気が、そうさせるとしか見えないのです。
 今や、棺の周囲に喧々囂々《けんけんごうごう》として、物争いの罵《ののし》りと、組んずほぐれつの争いと、棺を引摺り出そうという者、そうはさせまいとする者とが、座敷いっぱいに荒れ狂うている形相《ぎょうそう》は、どうしても、この室の内外に、何か力があってそうさせると思うよりほかありません。そうでなければ、石占山《いしうらやま》から取って来てお茶うけのつもりで出したあの茸《きのこ》の中に、きちがい茸があってそれを食べたために、すべての者が狂い出したのでしょう。
 そう言われれば、たしかにそうです。家の外の低気圧でもなく、室の中の悪気でもなく、あの茸です、あのきちがい茸です。それを食べたから、食べたすべての者が、こうして狂い出してしまったのです。ただ、罵る者、組んずほぐれつする者、棺を引き出そうとする者、そうはさせまじとする者のみではありません、大動乱の半ばに、大きな顔をして笑い出す者が起りました。とめどもない高笑いをしながら、傍《かた》えの人の髷《まげ》を持って引きずり廻していると、引きずられながら高笑いをしつづけている者もあります。
 柱へ登ろうとして、辷《すべ》ってまたのぼり、
「廻るわ、廻るわ、この家屋敷がグルグル廻る、廻り燈籠《どうろう》のように廻らあ、廻らあ」
と、天井を指しながら喚《わめ》く者も起りました。
 原因はわかりました、茸のせいです、毒のある茸のせいです。
 もし、たった一人でもいいから、その茸を食わなかった者があるならば、早く走って医者のところへ行きなさい。
 ところが、走り出そうとすれば、どっこいとつかまえられてしまいます。
 深夜のことで、大きな構えですから、あたり近所からも急に走《は》せつけて来る者はないようです。
 行燈《あんどん》も、蝋燭《ろうそく》も、線香も、メチャメチャです。畳を焦《こが》しただけで、消えてしまった蝋燭は幸い、座敷の一隅へころころと転がって行った鉄製の燭台に火のついたままのが、障子のところまでころがりついて、パッと燃えて、障子にうつったのは、ワザと火をつけに行ったようなものです。
 障子の紙を伝って、天井へメラメラと火がのぼると、折悪《おりあ》しく、そこへ油単《ゆたん》の包みが破れて、その紙片が長く氷柱《つらら》のようにブラ下がっていたのを、火の手が、藤蔓《ふじづる》にとりついた猿のように捉えると、火は鼠花火の如く面白く走って、棚の上なる油単の元包みそのものに到着してしまうと、暫く火の手だけは姿を隠したが、やがて夥《おびただ》しい煙の吹き出して来たのを、組んずほぐれつの座敷の者は、誰あって気がつきませんでした。

         二十五

 これはまさしく一大|椿事《ちんじ》です。
 茸《きのこ》のさせる業と見るよりほかにみようはないが、それにしても、一応食物を分析した上でなければ科学的の立証はできないが、巷間《こうかん》の伝説に従えば、左様の例は決して無いことではない。
 茸のために一家|狂死《くるいじに》をしたということもあれば、笑死《わらいじに》をしたということもあるにはある。
 この附近の石占山《いしうらやま》というところは、文化文政の頃から茸の名所となってはいるが、そこで取れる茸は、松茸《まつたけ》、湿茸《しめじ》、小萩茸《おはぎたけ》、初茸《はつたけ》、老茸《おいたけ》、鼠茸《ねずみたけ》というようなものに限ったもので、そこから毒茸が出て、人を殺したという例《ためし》はまだ無い。
 しかし、茸の生える所がこの国で、石占山ときまったものでない限り、どこにどのような毒茸が真茸顔《まだけがお》をして、人間をたぶらかしていたか知れたものではない。天狗茸《てんぐたけ》、蠅殺茸《はいころしたけ》、虚無僧茸《こむそうたけ》、落葉茸《おちばたけ》、萌黄茸《もえぎたけ》、月夜茸《つきよたけ》、笑茸《わらいたけ》、といったようなしれものが、全く真顔をして、茸には慣れた山人をも誘惑して、毒手を逞《たくま》しうするという例も絶無ではありません。
 すべて、この場の突発椿事の一切の責任を、挙げて茸氏に帰《き》してしまおうとするのは、右に挙げた類の茸族のうちのいずれがその加害者であるか、或いはほとんど全部の共謀のような形になっているか、或いはその中のほんの一種類だけの悪戯《いたずら》に過ぎないか、その辺を再応吟味してみる必要はあるのです。いかに毒茸族が憎いからといって、茸の方から進んで人の口に飛び込んだのではない。その現行犯でないものをまでも捕えて、罪に落すのは酷といわねばなりません。
 しかし右の毒茸族のうちでも、今宵の犯罪者は、極左に属したものでないことだけは、不幸中の幸でありました。
 毒茸党の極左に属するものには、人間が手を触れただけで、その
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