触れた部分を腐らせてしまうものがある。もしそれを取って胃袋の中へでも送ろうものならば、たちどころに内臓の全部を顛覆し、人間の外体を一昼夜もころげ廻って悩乱させ、その全身を紫斑色にして虐殺してしまう。それに比べると、今晩この連中を昂奮せしめた茸氏は、社民系に属するものと見てよいかと思う。
昂奮させ、反抗させ、或いは笑いを爆発せしめることはあるが、生命を奪うまでに、人体を苦しませることはしていないようです。だが、どちらにしても茸に中《あた》った毒は、河豚《ふぐ》に中った時と同じことに、その薬がなく、救済方がなく、ただ時という医者をもって、生かすか、殺すかの処分を待つほかは手段がないそうですから、この場のなりゆきも、手を束《つか》ねて見ているよりほかはありますまい。
右の如く、底止《ていし》することなき、突発の椿事が椿事をうみ、天井から先に火がついて、室内をパッとすさまじい明るさにしてしまいました。それと共に、大入道の出すような赤い舌がメラメラとして、室の四隅を上から下へと舐《な》め廻して来たので、さすが動乱している会衆も、その異様な赤味と、赤味が煽《あお》る熱さとに、いたたまれなくなったと見えます。
そこで彼等のうちの一隊は、イヤなおばさんの入れられた寝棺を、無意識に担ぎ出しました。われも、われもと、その寝棺に手がかかり、肩がかかると、お神輿《みこし》を揉《も》むが如くに、その寝棺を揉み立てると、それを自然に、後ろから火勢が煽るものですから、ちょうど水が溢れて、船が動き出したと同じように、いつか知らず、寝棺は家の外へとかつぎ出されましたが、棺にとりついていた幾多の人々は、半面|火傷《やけど》の者もあり、衣服にまで火のついたものもある。
「あ、熱《あつ》!」
「熱!」
火が室外に追い、熱さが、この一行を宮川河原まで追い出してしまいました。
やはりお神輿を揉むように、揉みに揉んで宮川の河原へ、一同が押し出した時分になって、あたり近所がようやく騒ぎ出しました。打てば響くように代官所が出動したのは、単にこれは、一民家の騒動だけではないと見たからであります。
二十六
かの高村卿と呼ばれた公達《きんだち》と、宇津木兵馬とは、この時、右の屋敷に居合わさなかったのは確実です。
それは、この葬式のために右の屋敷を立ちのいてしまったものではなく、公達と兵馬とは、この日、早朝から馬を並べて、日和田まで野馬をせめに行って、まだ戻って来ないうちの出来事がこの通りなのです。
もとより、二人とも、遠乗りのつもりで行ったので、泊って来る予定ではないのだから、こんなに遅く帰らないということは、出先で、その野馬ぜめなるものが、帰ることを忘れしめるほどに面白かったものか、そうでなければ、途中何かの事故を生じたために、こんなに遅くまで戻らないのでしょう。
左様、事実はその前者でありました。
日和田というのは飛騨の国内ではあるけれども、信濃、木曾御岳の境に当り、その辺の村の家々に飼われた馬は、毎朝、夜の明くるを待ち侘《わ》びて、厩《うまや》の戸をハタハタと叩く。
早く、戸をあけてくれよとの、持主に向っての合図です。
持主の家では、馬の催促に従って厩の戸をあけてやる。家々の馬は、いななき合って、勇ましく打群れて走り出す。誰も曳《ひ》く人もなく、御する人もないのに、思うまま野に出でて、終日を遊び暮らす。
或いは馬首をあげて、北風か、南風か知らないが、風に向っていななくのもある。或いは軽俊に走《は》せ違って飛行するのもある。或いは打連れて谷川をかち渡るのもある。或いは子をいたわって丘を上るのもある。或いは牝牡《めすおす》、むつまじく交尾するのもある。かくして夕陽の峰に隠るる頃になれば、やはり人間の来《きた》って迎えざるに、おのおの隊伍を組んで、また以前の厩に帰って、おとなしく納まる。
公達《きんだち》と兵馬とは、親しくその光景を見て、動物の有する相互扶助と、それから、無政府状態にして一糸乱れざる統制ぶりに、まず感心させられました。感心して後、彼等の仲間に分け入って、公達がいきなり、駒の勇ましい奴を一つつかまえて、乗ろうとすると、その駒はいたく驚いたようでしたが、周囲《まわり》の馬もまた、長い面と、黒い眼を驚かせつつ、いたずら者の為すところに、やや恐怖の念を抱いたようではありました。
さりながら、この二人連れの者にいささかも害心がなく、やはり駒同様の、はずみきった若い人間種族が、我々と遊びたいがために、わざわざここまでやって来たに過ぎないのだ、我等をとって以て、肉親の愛を剥ぎ、これを市場に売ろうとして出て来たばくろう[#「ばくろう」に傍点]の類《たぐい》でないことを知り、いわば、これは、我等のための珍客であるというよりは友達であ
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