って、この不浄の家を……」
「待て、待て」
 貴公子は石をパチリと落し、
「そのほうは、よく不浄の家、不浄の家と申したがるが、わしがいる間は、この家の主人じゃ、不浄呼ばわりは聞き苦しいぞ」
「恐れ入りました」
「いったい、その非業《ひごう》の死を遂げたという婦人、この家の女主人というのは、いかなる死に様をしたのじゃ」
「はい、水死をいたしました」
「水死――水に落ちて死んだのか」
「はい」
「このあたりには、落ちて死ぬほどの水たまりは無いではないか」
「はい、実はその、これより国境を越えて信濃分になりまする白骨谷というところで、水死を遂げました」
「白骨で……」
「はい」
「一概に水死というが、あやまって水に落ちて死んだのか、得心で水に投じて死んだのか」
「それが、いずれともわかりませぬ」
「ははあ……」
 今や局面の定まるところに一石を下ろした貴公子は、上《うわ》の空で用人に向い、
「いずれにしても苦しうはない、今晩でもよろしい、明日でもかまわぬ、その死体をこの家へ運ぶがよい、遠慮なく。次第によってはわしが施主となって、その淫楽の女主人とやらのともらい[#「ともらい」に傍点]をしてやってもよい」
「恐れ入りました」

         二十一

 用人としては、もはや、それ以上には押すことができません。
 ぜひなく、この事を、主人たる代官に向って申し上げ、その復命を待って事を決するよりほかはないと思いました。
 夜更くるまで、兵馬を相手に碁を囲んでいた貴公子は、やがて、極めて機嫌よく寝室に入りました。兵馬のためにも、すでに、この家に泊るべく、代官の方から用意が充分にしてあったのです。
 しかし、その晩のうちに、淫楽の後家さんの非業の死体というのが、この家へ乗込んで来た形跡はありませんでした。
 その翌朝、未明に貴公子は兵馬を促し、二人が飄然《ひょうぜん》として、この屋敷を出かけてしまったから、あとのことはわかりません。多分昨日約束しておいた通り、日和田《ひわだ》とやらへ野馬をせめに行ったのではないかと思われます。だが、その日の七ツ時になると、果して、右の淫楽の後家さんの死体というのが、この屋敷へ乗込んで来ました。
 自分の家へ、自分の死体が乗込んで来たということは、少しも不思議のことではありません。
 ことに、新たに家を預かっている人の、あれほどの諒解を得ているのだから、なおさら不思議のことはないのです。やかましく言った代官の方でも、貴公子の充分なる諒解があったから、黙認の形式を取ったものだろうと思われます。
 広間の真中へ置かれた一つの新しい寝棺《ねかん》。その中には、当主であるべき例の淫乱の後家さん、白骨谷の通語でいえば、イヤなおばさんの亡骸《なきがら》が、白布に覆われて、いとも静かに置かれてある。
 夜になるとその周囲に、幾台もの燭台が点《とも》っている。昼のように明るいと言いたいが、その光が湿っている。棺の後ろには阿弥陀如来の掛像があり、棺の前には、さまざまの供物《くもつ》がある、香炉がある。すべての調度は遺憾《いかん》なく整っているところに、ボツボツと集まった親類縁者というものが、それでも、いつのまにか、その広間に溢《あふ》れるほどの景気となったのは、何といっても、この土地きっての大家の余勢でしょう。おのおのが線香をあげたり、水をやったりする。
 時としては、こういう席が、かえって賑やかになるもので、故人の徳をたたえてみたり、その邪気《つみ》のない失敗談をすっぱ抜いてみたり、また泣く泣くも、よい方を取るべき遺品《かたみ》分けの方へ眼が光ったりして、湿っているうちにも、かなりの人間味が漂うべきはずであるが、この席に限ってほとんどそれがないのです。
 お義理だから集まっては来たけれども、いずれも、むっつりとした顔をして、特に何かの故人のしのびごと[#「しのびごと」に傍点]を言い出でようという者もなく、どうして発見して、誰がいつ持って来たかということを、念を押す者もなく、よく見つかったという者もなく、悪く持ち帰したという者もなく、全くお義理で、イヤイヤながら寄って来たという空気が充満して、全く白けきったお通夜の席が出来上りました。
 こんな空気の中に、たった一人、目立ってハシャイでいるのは、新家《しんや》の徳兵衛といって、イヤなおばさんには甥《おい》か何かに当る、それでも、もう相当の年配で、三十七八というところ、女房も、子供も、充分に備わってしかるべき分家の主人であります。
 この男が、万事をとりしきって、白けきった席の蝋燭《ろうそく》の心《しん》を切らしたり、湿っぽい席に笑いの種を蒔《ま》かせたり、ひとりで、座を取持とうとしている努力が見えます。その努力が報いられて、一座の連中とても無言の行《ぎょう》をするために集まっ
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