い」
「それはまた、死人がどうして、これへ戻ったのじゃ」
「ええ、もう無いものとあきらめておりました死体を、ゆくりなく、このほど、水の底から見つけ出しまして、今日、引取って参ることになりました」
「何と言いやる、今まで水の底にかくれていた当家の主人の亡骸《なきがら》が、このたび、見つかった故《ゆえ》に、それを引取って参ったとな」
「はい、左様の次第でござりまする」
「生きているのでないならば、もはやこの家の主人ではあるまい」
「左様の儀でござりますが、なにぶんにも、親類縁者が数多くござりまする故」
「親類縁者が多数にあっても、この家のあとを継ぐべき者は無いというのではないか」
「御意の通りにござりまするが、なにぶんにも、死体とはいえ、当家の主人が見つかりました上は、親類縁者一同寄り集まり、相当のとむらい[#「とむらい」に傍点]の営みをしてやらねばならぬと、そのように申しておりまする」
「いかさま、それはありそうな儀じゃ」
「就きまして、恐れ入った次第でござりまするが、葬儀万端を営みたいと申しまするために、当分当家を拝借したいが、この儀いかがのものにやと、親類縁者共の願いでござりまするが……」
「この屋敷で、葬式を営みたいと申すのか」
「恐れながら、左様な不浄の次第ゆえに、公家様《くげさま》にはこのところを御動座あそばされるようにお願いでござりまする、二の丸に新たに御座所の用意を仕り置きました故に、明日にもあれへ、御動座のほどお願い致したい儀でござりまする」
次の間で、用人がこれだけのことを、平身低頭して申し入れたのを、問答|体《てい》に聞いて、これまで来ると、貴公子が暫く沈黙してしまいました。でも、兵馬との碁を打つ手は休めないで、返答のみ途切れていたが、やがて、
「それは一応聞えたが、それまでには及ぶまいにな。生きて戻ったものならば、わしも一儀なく、この屋敷を明渡してよろしいが、主人が死んでしまっている上は、主人とはいえまい、やっぱり、わしが主人じゃ、わしが許すから、遠慮なくこの屋敷で葬儀をとり行え」
「えッ」
用人は呆《あき》れてしまう。
「死んだ人が生きたものを走らせることは、諸葛孔明《しょかつこうめい》のほかにはないことじゃ、おうおう、これは其方《そのほう》が何かと言いかけるものだから、死んだはずの宇津木の石が、どうやら生き返ったわい。よしないことを其方が言うものだから、わしが仲達《ちゅうたつ》の憂目を見せられる」
二十
この貴公子が、どうしても動座を肯《がえん》ぜざるがために、用人の面上に現われた苦渋、難渋の色は、見るも気の毒なほどでありました。よって見兼ねた兵馬が、
「ほかに家はないのですか、ただお葬式を済ますだけの家はありませんか」
と、あまり巧妙ならぬ調停の言葉をはさんでみました。
「それがその、ほかの事と違いまして、現在自分の家がありながら、葬式の席をかせと申しがたいことでもござりまするし、それに、当人が、第一よろしくござりませぬ、それ故に死んだ後までも親類中に忌《い》み嫌われて、葬式の席を貸そうと申し出でる者も無いこと故に……」
用人が、かく弁解すると、貴公子は、
「だから、この家でやるがよい、わしはいっこうかまわぬのじゃ」
「それが、甚《はなは》だ恐れ多い儀でござりまして、当人は不浄の上に、人より天罰と申されるほどな非業《ひごう》の死を遂げた人間でござりまするが故……」
「うむ、天罰、何かよほどの悪いことをしたのかな」
「淫楽に耽《ふけ》りまして、目も当てられぬ挙動《ふるまい》をのみ、致しおったそうでござります」
「ナニ、淫楽に耽った……」
「はい」
「淫楽――というのも程度問題じゃな、これだけの家を踏まえている主人として、妾《めかけ》の一人や二人あったからとて、死んだ後まで、そう嫌わんでもよいではないか」
貴公子が存外、さばけて挨拶をするのを、用人は、いっそう恐縮して、
「それがその、男性でござりませぬが故に……」
「男性? 男ではないのか、この家の元の主人は」
「はい、夫なるものは死に失せまして、後家を立てておりましたが、いやはやどうも、箸にも棒にもかからぬ淫婆でござりまして……」
「おお、そうか、女主人であったのか」
「はい」
しかしながら、女主人であるが故によいとも、悪いとも言わず、碁の手が難局になったと見えて、そこで貴公子は沈黙してしまいました。せっかく、ここまで話をすすめた用人は、その結論が聞かれないので、がっかりしたが、やっと少しばかり膝をにじ[#「にじ」に傍点]らせて、
「左様な不所存者の非業の死体をこのところに引取り、御座元《ござもと》間近を汚《けが》すことは、恐れ入った儀でござりまする、さりとて、当人の死体のために席を貸すという家は一軒もござりませぬ、よ
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