って甲府を抑え、飛騨を取らんと申し入れて、さしもの豪傑連に舌を捲かせた上に、羅陵《らりょう》を舞って悠々と引上げたことを――その前後に、武蔵、相模の山中に、異様な物鳴りがあって、時ならぬ時、笛や太鼓の物の音が、里人や、猟師、杣人《そまびと》を驚かしつづけたことを。
 現に兵馬も、その驚かされたうちの一人で、右の怪しい物音のために、猟師と共に武相の山谷に探検を試みたこともあったということを。
 白骨谷へ集まった、お神楽師《かぐらし》を標榜する連中が、その崩れでないとは保証ができない。彼等の中には、幕府を制するには甲府をおさえ、飛騨を取らねばならぬということに精細な研究を積み、今や、よりよりその実行にうつりつつあるが、実行にはかなりの大兵と、軍費とを要すること。それに行悩んでいるらしい形跡はたしかにある。
 彼等一味の有志連が、挙《こぞ》ってかつぎ上げるところの盟主は、白面俊秀にして、英気溌剌たる貴公子であった。今このところに鬱屈せしめられている、当の貴公子は、まさにその人であるに相違ない。
 兵馬は今はじめて、その人を見、まず煙に巻かれてしまって、言句が出ないのです。
 たとえば、この人は、初対面の自分をつかまえても呼捨てであるが、いわゆる「新お代官」の胡見沢《くるみざわ》をつかまえても呼捨てであり、のみならず尾州家を呼ぶにも同じく呼捨てであり、談が長州、薩摩の大守のことに及ぶと、これらの大名をつかまえ、自分の家の子のように呼捨てにして憚《はばか》らないことのみならず、江戸の将軍一族に対しても、或いは家茂《いえもち》がと呼び、慶喜《よしのぶ》がと呼んでいる。それが夜郎自大《やろうじだい》でするような、衒気《てらいげ》にも、高慢にも響かないで、いかにも尋常に出て来る。さながら、そう呼んで差支えないだけの家に生れた子が、そう呼んでいる通りの自然にしか響かないのです。
 おそらく、この貴公子の唇頭からは、日本の国の中では天皇《すめらみこと》御一人に対し奉りてのほかは、色代《しきだい》を捧ぐる必要のない、御血統に生れ給うたお方ではないかと思われるほど、それほど自然に、この貴公子の尊大な言語挙動が、兵馬の耳と眼に、尋常に映じ来《きた》ることであります。
 そこで、この貴公子に拉《らっ》せられた兵馬は、宮川を前にした大きな一構えの中へ引張り込まれてしまいました。これが多分、川西の屋敷とでもいうのでしょう――兵馬が連れられて来る背後を、ものの一丁ずつも離れ、たしかに三人のさむらいたちがつき従って来るのを認めました。
 御家来ではなし、これは代官から、従者とお目附をかねた附人《つけびと》たちだなと、兵馬は感づきました。
 川西の屋敷へ着いて見ると、そこに用人らしいのが、玄関に頭をつけて待っている。
 貴公子は、さっさと奥へ通って、自分の居間と覚しいところの一室に座を占め、兵馬を坐らせて、涼風を煽って、汗ばんだ肌を押しくつろぎ、
「そなた、もう食事は済みましたか。これから桜の馬場へ馬をせめに行こう――明日は午前に、そちに剣術を教えてもらい、午後には馬に乗り、夜分は双六……そちは双六を知らぬとな。では碁を打とう。ああ、よい友達を見出し得て、わたしはしあわせじゃ」
と言って、中啓を閉じて、ハタハタと刀架《かたなかけ》を叩いたのは、人を呼ぶためらしい。
「そなた、さしつかえる事なくば、この屋敷に来てたもらぬか。朝夕、わしと一緒にここに起臥《おきふし》してたもらぬか。いいや、代官に断わるまでもなく、そちがよいと言い、わしが望むと言えば、それで仔細はない」

         十九

 その晩、貴公子と兵馬とが碁を囲んでいるところへ、恐る恐る用人が、次の間から伺《うかが》いを立てました、
「御清興中恐れ入りますが、ちとお願いの儀がござりまして……」
「何事じゃ」
「まことに恐れ入りまする儀ではござりますが、お聞届けの儀をひらにお願い仕《つかまつ》りまするでございます」
「は、は、は、お願いの儀とか、お聞届けの儀とか言うて、その儀の本義を言わぬ先に、恐れ入ってばかりいてはわからない」
「実は、この家の主人が立戻って参りました儀で……」
「ナニ、この家の主人が戻って来たとな。それは不思議じゃ、この家の血統は死に絶えて、幽霊が出るなんぞというて、誰もすみてが無いというから、これほどの屋敷を惜しいものじゃ、そんなら、わしにくれと言うておいたのに、今になって主人が戻って来たとは奇怪な……」
 白石《しろ》を指頭にハサミながら、貴公子の挨拶が用人の頭の上を走ります。
「はッ、御不審|御尤《ごもっと》もでいらせられまする、実はその、当家の主人がかえって参りましたと申しましても、生きて戻ったわけではござりませぬ」
「ナニ、生きて戻ったのでなければ、死んで戻ったのか」
「は
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