二三日も館《やかた》へ帰らぬことがあったから、領主が泣いていた。この飛騨には海がないのみならず、わしが食い足りるほど泳ぎたい池も、沼も、湖もない」
「ははあ」
「そなた、何ぞ、芸に遊ぶ心得はないか、たとえば、歌をよむこと、絵を描くこと、香を聞くこと、管絃をかなでることでもよろしい、さもなくば囲碁か、双六《すごろく》か」
「はい、いっこう何も心得ませぬが、囲碁ならば少々」
「ああ、それはよろしい、わしのところへ来て相手をしてたも……わしもここに閉じこめられて、鬱積して堪え難いのじゃ、わしを不憫《ふびん》と思うて慰めてもらいたい」
十七
兵馬も竹刀《しない》を取っては、充分にこなし切れるが、このたてつづけの挨拶には、ほとんど応接に困るのでありました。
第一、このたてつづけの質問の主は、誰人であるかわかりもせず、また名乗りもしない先に、自分の注文だけは遠慮なく提出し、ただ提出するだけならよいが、いちいちそれが命令的になってしまうのです。
兵馬というものを、この山中の都会で見つけ出して、遮二無二《しゃにむに》、自分の伽《とぎ》にしてしまわねば置かぬという権高と、性急とが、全く兵馬をして挨拶に困らせました。
だが、その身元|素姓《すじょう》を反問するまでもなく、その風采から、服装から、言語挙動のすべてが説明するように、誰もが憚《はばか》る堂上の貴公子の類《たぐい》であって、それが多分、何かの仔細で、この山国の小都会に預けられているのだ。かなり身辺の自由は保留されているらしいが、それでも、鬱積して堪え難いものを、自分から解いて任意の行動を取ることは許されていない。つまり、身分ある人が、この高山の地へ幽閉を蒙《こうむ》っているというほどでなくても、ここで謹慎を命ぜられているものに相違ない。ありそうなことだ、この気象では……と兵馬はその点だけは合点がいって、ようやく、隙を見出したものだから、
「して、あなた様は、どちらにおいでになりますか」
「わしは、この川西に家をあてがわれているけれども、わしの周囲《まわり》は、みんな他人じゃ、わしの気に入った同志たちは、一人もわしの傍へ寄りつかないようにされている、わしが身は当分、この飛騨の高山あたりを外へは出られないことになっている、それが堪えられぬ苦痛じゃ。この地の者共には相手になるのが一人もない、このごろは書物を借りて読んでばかりいるが、もう書物も読みつくした、歌を詠んでも見せる人がない、碁を打ちたいと思うても、その相手すらないのじゃ。それで、わしは無聊《ぶりょう》に堪えられない、今日、ひとり馬をせめていると、下部《しもべ》の申すことには、昨日、これへ珍しい少年の剣客が見えたとのこと、なにほどのこともあるまいとは思うたが、来て見ると、全く、天晴《あっぱれ》なる手練、そなたというものを見つけたのは嬉しい。これから当分、剣術の相手、馬の遠乗り――もしやそちが、歌を詠むことを学びたいなら、わしが知れる限りは教えてもよい、囲碁、双六《すごろく》の相手もしてたも」
そう言って、委細かまわず、兵馬を自分の相手として任命してしまうところ、全く眼中に人はないのです。
左右の様子を見てみると、代官の役人共、この我儘《わがまま》貴公子の申し出でを、別段に抑止する模様もなく、むしろ、やんちゃ若様の子守役を、兵馬が引受けてくれれば有難いといったような気色《けしき》。それを見て、兵馬はいよいよ昨晩の「新お代官」のもてあましの難物というのに思い当りました。すっかり面食ってしまっている兵馬をとらえて、この貴公子は、
「さあ、わしが屋敷へ行こう。わしが屋敷といっても仮の宿じゃ、本当の家は京都の今出川《いまでがわ》にあるが、ここでわしのために定めてくれた家は、今まで空家《あきや》になっていた――この幽霊の出そうな空屋敷に、いわば座敷牢といったようなものに、わしはひとり納められて、出入りにも人がつき、身の廻りの世話は代官から、むくつけなのが交代で給仕に来てくれるのみじゃ。そなた、これからわしと一緒に、そのわび住居《ずまい》まで同道しや」
貴公子はこう言って、のっぴきならず、兵馬を拉《らっ》して、その自分が幽閉されているらしい屋敷へ連れ込もうというのです。
それは前に言う通り、それを預かる代官の家中も、かえって同意的に黙認しているらしいから、やがて兵馬はこの貴公子に引き立てられて、道場を立ち出でました。
「飛騨の高山には海が無い……その代り、思う存分駒に乗って、国内を飛ばせてみよう」
十八
曾《かつ》て、仮りに高村卿と呼ばれていた英気|溌剌《はつらつ》たる貴公子があって、多少の同志の者を連れて随所を横行し、江戸の三田の四国町の薩摩屋敷の中へ乗込んで、若干の兵を貸せ、その兵をも
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