それと甲州流の軍学を心得ていたということだ。そのほか、この土地の先生に就いて学問もやれば、習字もやったが、なんにしても飛騨の山の中では本当の修行はできやせん、まもなく江戸へ上って、鍛えたから、まあ当今あれだけになったものさ。ははあ、そんなに強いかね。天性力はあったね。鬼鉄《おにてつ》、なるほど、そうかも知れぬ。だが、感心に若い時分から信心家でな、八つぐらいの歳から観音様を信仰していたものだとさ。面白い話が一つある、叔父さんかなんかのために鎧《よろい》をこしらえていたが、その出来が遅いと言って怒られた、その晩、先生|素裸《すっぱだか》で、黒の桔梗笠《ききょうがさ》をかぶって、お盆の上へ蕎麦《そば》を一杯|恭《うやうや》しく盛り上げ、そいつを目八分に捧げて、その叔父さんかなにかのところへ出かけて、まじめくさって、門口に突立っていたものだから、みんなギャッと言って肝をつぶしたことがある。素裸で、お蕎麦一杯を恭しく捧げて、まじめくさって突立った形は絵になるじゃないか、白蔵主《はくぞうす》のお使といったような形だね。そんな人を食ったところもあったそうだ。六百石の小野家から、百五十石の山岡へ押しかけ聟《むこ》に行ったところも面白いな。君も知ってるだろう、山岡は静山《せいざん》といって、日本一の槍の名人さ――とにかく飛騨の高山は、昔、悪源太義平、加藤光正、上総介《かずさのすけ》忠輝といったような毛色の変った大物が出ているよ。毛色の変った人物といえば、近頃てこずった難物――と申し上げては少々恐れ多いが、とても扱いにくいエラ物《ぶつ》がおいでになって、拙者も弱り切っている。そうだ、君でも当分あの方のお傍にいて、お伽《とぎ》をつとめてもらうと助かるがなあ――

         十六

 兵馬は、その「新お代官」の謂《い》うところの難物――というのが、何人であるかを知らず、押して尋ねてもみないで、その夜は辞して帰り、その翌日はまたも昨日と同じ道場で、稽古をつけてやっていると、そこへ不意に、一人の小冠者が走《は》せつけて来ました。
 小冠者といっても、これは兵馬がしばしば驚かされつけている宇治山田の米友の類《たぐい》ではありません。年は十七八、ほぼ兵馬と同年輩だが、一見、小冠者というよりも、貴公子というべきものであることは確かです。
 薄化粧しているかとおもわれる白面紅顔に、漆《うるし》のような髪の毛を、紫紐できりりと結び、直垂《ひたたれ》を着て、袴をつけ、小刀は差して太刀《たち》は佩《は》き、中啓様《ちゅうけいよう》のものを手に持って、この道場へ走り込むと、さしもの猛者《もさ》どもの中を挨拶もなく、ずしずしと押通り、兵馬の稽古している直ぐ後ろへ立入り、じっと瞳を凝《こ》らして兵馬の稽古ぶりを注視したものです。
 ところが、道場に満つる人々が、この傍若無人の小冠者の振舞を怪しともせず、彼が入り来《きた》った最初から、ほとんどが膝を組み直し、頭を下げて、ひたすら尊敬の意を表する有様が、いかにもいぶかしい。
 二三名を、こなしている間、篤《とく》と兵馬の剣術ぶりを注視していたこの小冠者は、
「おお、見事見事、わたしにも指南してたも」
と、早くも道具をつけにかかる。兵馬には、稽古中から、この異様な貴公子の挙動が解しきれないものであったが、いかにも小気味よく稽古をこうのだから、辞すべき理由は少しもありません。
 竹刀《しない》を取れば、天下に有数の宗師は知らぬこと、大抵の場合に、自信を傷つけられるということのない兵馬は、稽古をつける気位で立合ってみました。
 無論、兵馬の予想通りで、術としては、さのみ怖るるにも足らないが、気象の烈しいことが太刀先に現われて、美音の気合と共に、息をもつかず打ち込む気力は侮《あなど》り難い。この稽古を終ってから、右の貴公子が、兵馬に挨拶をして言いました、
「そなたほどの年で、それだけに使える人は全く珍しい、どこで修行なされたか、流儀は直心蔭《じきしんかげ》じゃの」
「はい」
「そなた、剣術ばかりか、他の武芸は?」
「はい、槍も少し覚えました」
「ほう、それは頼もしい、して、馬は?」
「馬――も少しばかりせめてみたことがございます」
「おお、それは一段、では、桜の馬場で、わしと一緒に一せめして、それから小日和田《こひわだ》へ野馬をこなしに行ってみようではないか」
「はい……」
「武芸ばかりかの、そなたは、ほかに何ぞたしなみはないか」
「何も存じませぬ、未熟者でして」
「いや、そうではあるまい、そなたの剣術は本当に修行している、して、泳ぎは?」
「水泳でございますか」
「左様、水泳をそなたはやりますか。わしは水泳が一番の得意じゃ」
「ははあ」
「熊野にいた時は、時候もよくあったし、海が近いから、毎日泳ぎに行って、遠海まで泳ぎ廻り、
前へ 次へ
全41ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング