た、
「どうか、これらの連中に、一本稽古をつけてやっていただきたい」
とのことです。兵馬はかえって、それを面白いことに思いました。
「おやすい御用です」
士分連も相当にいたのですけれども、それらは、少年兵馬を見るに異様な眼を以てして、進んで稽古をこおうとはしませんから、兵馬は、それにかまわず、借受けた道具をつけて道場の一方に立ち上ると、代稽古の紹介を待たず、勢いこんで躍《おど》り出したのは、猛牛のような一人。
少年兵馬の物々しさを侮って、いきなり、
「お面!」
と打ちこんで来ました。
それを兵馬が、ちょっとかわして、肩のところを竹刀《しない》で押えると、地響きを立てて横に倒れました。その、鮮かな初太刀が、集まっているすべての竹刀を休ませて、兵馬一人を見つめて、仰天の態《てい》です。
出鼻をぶっ倒された猛牛は、起き上るが早いか、覚えたかといわぬばかりに滅多打ちに打ちかかって来るのを、兵馬は軽くあしらい、軽く外《はず》し、あんまりくっついて来る時は、また軽い突きで二三間|刎《は》ね飛ばすと、猛牛が忽《たちま》ちヘトヘトになってしまいました。
猛牛が難なく退治せられたと見ると、道場内の空気が忽ち一変します。
しかし、やや怖れをなしたのは、多少心得ある者だけで、猛牛に次ぐに野牛、野あらし、野犬、まき[#「まき」に傍点]割り、向う脛《ずね》の連中が、得たり賢しと自分たちの稽古をやめて、我勝ちにと兵馬の周囲《まわり》に集まって来たことです。
でも、最初のように、いきなり、ぶっつかることはなく、一応は礼儀をして、一本お稽古を願う態度を示したはいいが、その後のぶっつかり方は、相変らず乱暴極まるもので、頭から力ずくで、このこざかしい若武者をやっつけろ、という意気組み丸出しでかかって来るから、兵馬はおかしくもあり、それが一層こなし易《やす》くもあり、猛牛も、野牛も、野犬も、野あらしも、薪割りも、見る間にヘトヘトにしてしまい、入りかわり立ちかわり、瞬く間に三十人ばかりをこなしたが、こなす兵馬が疲れないで、入りかわり立ちかわり連がかえって、道具をつける時間を失い、あわてて兵馬に暫時の休戦を乞うの有様でしたから、兵馬は居合腰になって竹刀を立てたまま、暫く休息していました。
士分連も今は侮り難く、謹んで兵馬に稽古をつけてもらうことになったのはそれからです。
十五
誰が復命したものか、この、素晴しい少年の道場荒しが乗込んで来たという報告が、いつのまにか、主人の耳に伝えられたと見えて、奥の間から、現われて来たその人は、いわゆる「新お代官」という人なのでしょう。肥った、色のドス黒いところに赤味を帯びた、それで背はあんまり高くはない男が、小姓に刀を持たせて、よい機嫌で、そこへ現われて来て、家来を相手の兵馬の稽古ぶりを、無遠慮にながめながら、ニタニタ笑っているのを見ました。
御機嫌はいいに違いないが、それは一杯機嫌であることもたしかです。
稽古が済んでから、兵馬は、この「新お代官」に引合わせられる。「新お代官」は兵馬の腕の見事なのをほめた上に、どうかできるだけ長く留まって、指導してもらいたいということ、自分はこれから出かけるが、今晩は、ゆっくり君と話したい――というようなことを言うて出て行きました。
その夜、兵馬は改めて、この「新お代官」に招かれて、御馳走になりつつ話をしたが、わかったようでわからないのは、この「新お代官様」だと思いました。
水戸の生れだということだが、そうだとすれば、どうして直轄地の代官になれたかということが判然しない。当然、士分の生れの者でなければならぬことはわかっているが、その口調や態度が、ややもすれば、どうしても前身が、バクチ打か何かであったろうとしか思われないものが飛び出す――それだけまた、お役人としては、風変りの苦労人であり、相当に分ったところもあるようです。御主人の出身は、まだよく判然しないが、その口から小野鉄太郎のことは、かなり明瞭に聞くことを得ました。
その語るところによると、鉄太郎はこの土地で育ったが、生れはやっぱり江戸だ、本所の大川端の四軒屋敷で生れたのだ、祖父の朝右衛門がここの郡代になるについて、当地へやって来たのが十歳《とお》ぐらいの時でもあったろう、おふくろも一緒に来たよ、おふくろといっても、鉄はああ見えてもあれで妾腹《めかけばら》でな、と言わでものことまで言う。剣術の方かい、ここで手ほどきをしたというわけではない、江戸で近藤弥之助やなんぞについて、その以前にやったのだが、引続いて、この地で学問剣術をやった。鉄に剣術を教えた井上清虎てのは、まだこの地にいるかって? 今はいないよ。よっぽど出来る先生かって、左様、よくは知らんがな、土佐の人だとかいったよ、真影《しんかげ》だ、
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