も知れない。第一その鉄太郎が、最初に師として学んだという井上清虎という人は、今もこの地にいるかどうか、必ずや、相当の達人に相違あるまい。健在でおられたら、ぜひとも見参《げんざん》して行きたい。
 兵馬は件《くだん》の高札場のところから、この市中のしかるべき武術家の門に向って、まずその辺をたしかめてみようと足を進めました。
 しかるべき武術家といったところで、誰と目星をつけて来たわけではない。右の小野鉄太郎と、井上清虎の名をふりかざしてたずねてみたが、要領ある返事をしてくれるものは極めて稀れです。
 でも、ある人が、こんなことを教えてくれました、
「剣術のことでしたら、お代官屋敷へおいでなさいまし。新お代官が、ばかに剣術がお好きで、毎晩毎晩、お盛んな稽古をやらせていらっしゃいます。先のお代官は、剣術の方も名人でいらっしゃいまして、御自身で誰にも剣術を教えていらっしゃいましたけれども、新お代官は、御自身ではどうでいらっしゃいますか知れませんが、お好きにはお好きでいらっしゃいまして、お屋敷の道場をお開き申して、誰にでも自由に剣術を習わせるようにしていらっしゃいます――」
 いらっしゃいます、という言葉を、ふんだんに使って紹介してくれたから、ついこちらでも左様でいらっしゃいますか、それは結構でいらっしゃいます、と返事をしてやりたいくらいに滑稽にも感じたけれど、なんにしても耳よりな話には違いない。
 お代官といえば、この飛騨の郡代のことであろう。徳川幕府より遣《つか》わされたるこの国の支配者で、この国ではなかなか軽からぬ地位である。その新お代官なるものが、道場を開放して、四民の間に剣術を習うことを許すというのは、今時《いまどき》、世間の物騒なのにつれて備うることの必要を感じたのか知れないが、人民に対して、威張り腐ることの代名詞になっているような代官その人が、進んで武術開放及び奨励とは感心なことである。
 兵馬は、それを聞くと早速に、教えられた通り代官屋敷の道場を叩いてみると、その時に、もはや戞々《かつかつ》として竹刀《しない》打ちの最中でありました。
 その音を聞くと勇みをなして、兵馬は玄関から正当に案内を申し入れ、型のごとく出て来た取次の用人に向って、自分が武者修行の旅行中のもので、御英名を慕いて推参したということ、兼ねて「英名録」や、その他旗本の要路の紹介免許状等が口をきいて、一議もなく、快き諒解《りょうかい》の下に、
「暫くお控え下さい」
 次の案内を、兵馬が玄関先で暫く控えて待っている間、この代官屋敷の奥の一方で、しきりに三味線の音と陽気な唄の声が立上《たちのぼ》るのを聞き、兵馬は一種異様の感を起さないわけにはゆきません。
 庭前では、道場を開放して四民の間に武術を奨励するかと見れば、奥の間ではしきりに三味線の三下《さんさが》り、それも、聞いていれば、今時のはやり唄、
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紺のぶっさき
丸八《まるはち》かけて
長州征伐おきのどく
イヨ、ないしょ、ないしょ
もり(毛利)ももりじゃが
あいつ(会津)もあいつ
かか(加賀)のいうこときけばよい
イヨ、ないしょ、ないしょ
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の調子で、荒らかに三味線をひっかき廻し、興がっている。
 それを聞いて兵馬が興ざめ顔になったのも無理がありません。

         十四

 庭前では尚武の風を鼓吹し、奥の間では鄭衛《ていえい》の調べを弄《ろう》している。
 それを甚《はなは》だ解《げ》せない空気に感じながら、用人の案内で道場へ通されて見ると、なるほど、盛んは盛んなものでした。
 もう数十人の稽古者が集まって、入りかわり立ちかわり、師範か代稽古か知らないが、大兵《だいひょう》の男を中心にぶっつかっている。他の隅々には、それぞれドングリ連が申合いの試合をしている。その景気を見て兵馬も一時は感心に打たれましたが、そうかといって、その盛んさがどうも雑然として締りがない。やっている連中を見ると、だらしなく参るのや、勢いこんで猛牛の如く荒《あば》れ廻るのや、先後の順も、上下の区別も血迷ってしまっているのが多い。そうして、なお、後から後から繰込んで来る面《かお》ぶれを見ると、百姓や、町人風はまだいいとして、ドテラを引っかけた博徒、馬方の類《たぐい》としか見えないのが、懐ろ手で乗込んで来るのを見ては、唖然《あぜん》として口のふさがらない次第です。
 これらの連中、ともかく、一応の礼儀をする、次に道具のつけ方を見ていると、正式に結ぶのもあるが、股引《ももひき》の上へじかに胴をくっつけるのもあり、ドテラの上へ直ちに道具をつけるのもあって、それらが申合いをすると、見ている者がドッと笑います。
 やがて代稽古らしい大兵の人が、稽古をやめ、道具を取って兵馬の方へ来て挨拶をしまし
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