す。その間に地の理を見定め聞き覚えたお雪は、これはどうしても、久助さんのいう通りに、明日にもここを出立して、飛騨の高山までは、どうにもこうにも同行をまぬがれないものと思いました。
 万事は高山で――と決心の臍《ほぞ》を固めました。
 高山へ行けば、あれを後ろに廻って、船津《ふなづ》から越中へ出る街道がある。南へ折れれば南信濃か、岐阜方面へ出るが、真直ぐに行くと白川街道だと教えられる。
 どのみち、こうなった上は、高山まではありきたりの路を踏まねばならぬ。そこまでは約八里、そんなに遠いほどの道ではないのに、途中、平湯峠というところが少々難所だけで、あとは坦々《たんたん》たる道、馬も駕籠《かご》も自由に通るとのことだから、やっぱり、万事は高山まで。高山へ着いてから、久助さんをまい[#「まい」に傍点]てしまわなければならぬ。それは気の毒なことではあるが、それよりほかに道はない。
 白川郷へ、白川郷へというお雪ちゃんの空想がさせる大胆な冒険は、もう心のうちで翻《ひるがえ》す由もありません。
 それとは知らぬ従者役の久助は、宵のうちに馬と駕籠とを頼み、お雪は荷物と共に馬に乗り、竜之助は駕籠に乗せ、自分は、その傍らに徒歩《かち》でつきそって、平湯の湯を立ち出でることになりました。
 平湯峠の上、峠といっても、この辺では最も容易《たやす》い峠のうちで、乗物ですれば知らぬ間に過ぎてしまうほどの峠――それでも峠の上の地蔵堂らしいところの前で、ちょっと馬を休ませ、駕籠の息杖を休ませました。馬上で、平湯の方をふり返ったお雪は、なんとなく名残《なご》りの残るものがあるように覚えました。
 万事をいたわる久助を――かりそめながら犠牲にあげるという心持に打たれて、見るに忍びない気にもなりました。

         十

 平湯峠の上で一行が暫く休んでいる時に、後ろから、つまり自分たちがいま出て来たところの平湯の方から、息せき切って上って来る数多《あまた》の人々を認めました。
 まもなく、その一行は、ここまで登りつめてしまった。非常に急いでいた旅ではあるらしいが、さすがにここに来ると、一息入れないわけにはゆかないから、その一行も、お雪ちゃんの馬の程遠からぬところへ荷物を置いて、ちょっと挨拶《あいさつ》のようなことを言いながら休みました。
 都合七八人の人が、いずれも弓張提灯《ゆみはりぢょうちん》を絞って、つき添っているのは、夜通しの旅であったことを想わせ、その人たちが、真中にして担《かつ》いで来たものが釣台であり、戸板であるのに、蒲団《ふとん》を厚くのせていることによって、これは急病人だと思わせられます。
 その急病人の上には、形ばかり蒲団をかけてあるが、その上に白布《しらぬの》をいっぱいにかぶせてある体《てい》を、馬上にいたお雪ちゃんが、最もめざとく見て、そうして、はて、これは急病人ではない、もう縡切《ことき》れている人だ、お気の毒な、急病の途中、高山までよいお医者の許へとつれ出してみたが、もうイケないのだ、気の毒な――とお雪は、よそながら同情してしまいました。
 久助さんも、同じように見たとみえて、その人たちに向って、
「御病人でございますか」
「はい――どうも、いけませんでな」
 一行の肝煎《きもいり》が、はえない返事。
「お気の毒でございます、こんな山方《やまかた》で、急病の時はさだめてお困りのことでござんしょう」
「はい、どうもなんにしても、こんな山坂の間でござんすから」
「どちらからおいでになりました」
「白骨から参りました」
「え、白骨から、左様でございますか、いつ白骨からおいでになりました」
「昨晩、夜どおしで参りました」
「それは、それは」
 久助さんも改めて、その釣台を見直すのでありました。
 それというのも、自分も昨日、白骨を立ったのであるが、こんな人には行逢わなかった。多くもあらぬ白骨谷に籠《こも》る面々には、みんな近づきになっているはずだのに、あの中には、いずれも一癖ありそうな人ばかりで、急にこんなになって運ばれねばならぬ人は、一人も見かけなかったのに、はて、不思議のこともあればあるものと見直したのですが、お雪ちゃんも同じ思いです。
「そうして、なんでございますか、御病人は、白骨で病み出しておいでになりましたか」
「はい、どうもとんだ災難でしてね」
「どちらのお方でございますか」
「高山の者なんですが、ついつい、あんなところに長居をしたばっかりに、こんなことになってしまいました、ホンとによせばよかったのですがね」
「ははあ」
 久助も、お雪ちゃんも、ほとんど烟《けむ》にまかれてしまいました。
 白骨は、つい今まで自分たちの隅々隈々《すみずみくまぐま》までも知っていたわが家同様のところ、どう考えても、急にこんなになりそうな人は思い
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