ね、先生、そんなことをおっしゃってはイヤですよ」
「でも、お雪ちゃん、お前はだいぶあのイヤなおばさんに、なついていたようだ」
「それは、あのおばさん、イヤなおばさんにはイヤなおばさんでしたけれど、それでも憎めないところがあって、イヤだイヤだと思いながら、どこか好きになれそうなおばさんでした、本来は悪い人じゃないのでしょう」
「は、は、は、あぶないこと、お前も二代目浅公にされるところだったね、あんなのに好かれると、骨までしゃぶられるものだ」
「全く、浅吉さんていう人は、なんてかわいそうな人なんでしょう、おばさんの方は自業自得《じごうじとく》かも知れないが、浅吉さんこそ浮びきれますまいねえ」
「だらしのない奴等だ」
と言いながら、竜之助は不意に起き上ったのは、厠《かわや》へ行きたくなったのでしょう。それを察したお雪は、自分も起き上って、かいがいしくしごきを締め直して案内に立ち上ります。いつもならば竜之助は、そんなことを辞退するか、お雪が知らない間に寝床を抜け出して、ついぞ手数をかけたことはないのですが、ここははじめての宿ですから、勝手が悪いと思ったのでしょう、お雪ちゃんのする通りに竜之助は導かれて、縁の外へ出ると、その間、お雪は肌の寒さをこらえて障子の外に立って待っていました。そうして、見るともなく夜の空を見ると、ここも山国とはいえ、白骨よりは、はるかに天地の広いことを感ぜずにはおられません。
白骨は壺中《こちゅう》の天地でありましたけれど、ここは山間の部落であります。溶けて流れない沈静が、ここへ来ると、なんとなく陽気に動いていることを感じます。
お雪は、白骨に残して置いた同行の久助さんのことを考えました。
わたしたちは一足先に平湯へ行っているから、荷物をとりまとめ、強力《ごうりき》を頼んで、二日や三日は遅れてもかまわないから、あとから来て下さいと言って置いて、白骨を抜け出すには抜け出したが、お雪ちゃんの本心を言うと、この辺で久助さんをまい[#「まい」に傍点]てしまいたいのです。
これは大きな冒険でもあり、謀叛《むほん》でもあるけれど、この場合、そうするよりほかはないと考えています。あの人は決して邪魔になる人ではないが、忠実過ぎるほど忠実であることが、大きな邪魔のように思われてなりません。
どうしたものだろう、ほんとうに……それを今も思案しているところへ、竜之助が廊下を渡って出てきました。それを見るとお雪ちゃんは、素直に柄杓《ひしゃく》を取って、竜之助の手に水をかけてやりました。
その時に一番鶏が啼《な》きました。
九
かくて三日を過している間に、白骨から久助が、委細をとりまとめて、抜からぬ面《かお》でやって参りました。
噂《うわさ》を聞くと、白骨に籠《こも》っているあの一種異様な人たちが、根っからこの冬を動こうともしないらしく、ことにまだお雪ちゃんとその連れである不思議な病者が、ここを去ったということをも気がつかないで、
「お雪ちゃん、またこのごろ雲隠れ、お嫁さんにでも行ったのか」
なんぞと噂をしているとのことです。久助はそれとなく、平湯から高山へ行って、また戻るようなそぶりで、なにげなく荷物をまとめて出て来たとのことです。
お雪ちゃんは、久助が万事よくしてくれたことを表面は喜びましたが、内実は、また一当惑と思います。
この久助さんを、ズッと白骨に残して置けるものならば残して置きたかったし、なおできるならば、国へ先に帰してしまいたいと思うけれども、それはどうしても、できないことだし、そんならばいっそ久助さんをもまき添えに、白川郷まで引張りこんでしまおうかしら。
それはいけない、久助さんは国へ帰ることだとばっかり思っている、わたしたちが白川郷へ行こうなんぞという気持が、全く理解のできる人ではない。こうなった以上は、途中でまい[#「まい」に傍点]てしまうよりほかはないとも考えました。
だが、ここで、私たちにまかれた後の久助さんはどうなるのだろう。そうでなくてさえ忠実すぎるほど忠実なあの人が、この遠国の旅路で、わたしたちをはぐらかしたとしたら、その心配と、狼狽《ろうばい》が思いやられる。ところが、いくら心配しても、狼狽しても、わたしの行方が絶望となった日には、あの人のしおれ方が思いやられるばかりでなく、おそらく、ひとりで無事に故郷へ帰る気にはなるまい。
お雪はこのことの思案だけで、かなり頭が疲れ、旅の仕度も手につきませんでしたが、久助さんはいい気なもので、明日の出立の日和《ひより》を見たり、これから飛騨の高山から、美濃の岐阜へ出て東海道を下るか、そうでなければ木曾路へ出て、ゆるゆると故郷の上野原方面へ帰ることを、若い時、伊勢参りの思い出から、子供のように喜んで、お雪に語り聞かせているので
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