出せないから、二人は面《かお》を見合わせたっきりでいると、
「さあ、それでは皆さん、もう一息御苦労」
「はいはい」
釣台をかつぎ上げた時に、揺れた調子か、山風にあおられてか、面のあたりにかぶさっていた白い布の一端が、パッとはね上ると、その下に現われたのは、久助は傍見《わきみ》をしていたが、馬上のお雪ちゃんは、ハッキリとそれを認めて、
「あっ!」
あたりの誰人をも驚かした声をあげたが、それよりも当人のお雪ちゃんが、土のようになってふるえたのは、覆われた白布のうちから見せた死人の面は、例のイヤ[#「イヤ」に傍点]なおばさんに相違なく、まだつやつやしい髪の毛がたっぷりと――あの脂《あぶら》ぎった面の色が、長いあいだ無名沼《ななしぬま》の冷たい水の中につかっていたせいか、真白くなって眠っているのを、たしかに見届けました。
十一
それは、お雪ちゃんが気のついた瞬間に、釣台をかついだ人夫が、あわてて覆いをしたものですから、ほかの誰も気のついたものはありません。
一息入れて釣台の一行は、こうしてお雪ちゃんの一行に後《おく》れて来たが、先立ってしまいました。
そのあとから、おもむろに手綱《たづな》をとりだした馬子が、
「お客さん、これが平湯峠の名物、笹の魚というのでがんすよ、おみやげにお持ちなさいましな」
それは笹の葉が魚の形に巻き上ったもの。
「これが渓河《たにがわ》へ落ちると岩魚《いわな》という魚になるんでがんす」
笹の葉化して岩魚となるという、名物のいわれ面白く、手折《たお》ってくれた好意も有難いが、お雪は上《うわ》の空で受けて、やがて馬は平湯峠を下りにかかる時、
「平湯峠が海ならよかろ、いとし殿御と船で越そ――という唄がござんしてな」
馬子が、そういって教えたのも、いつものお雪ちゃんならば、「それをひとつ唄って下さいな、ぜひ」とせがむにきまっているが、今はその元気さえありません。
たったいま、見た物《もの》の怪《け》を、誰ぞに話してよいものか、悪いものか、それにさえ惑いきっているのであります。久助さんが見なかったことがかえって幸い、見ずにいれば見ないで済んだものを、ここでいやなことを言い出したら、みんなの気を悪くするにきまっている、自分ひとりの胸に納めて言わないで済ましてしまうのが本当だと、お雪ちゃんはひとり心に思い定めてしまいました。
心には、思い定めたけれども、胸はいよいよ不思議でいっぱいです――あの、夏以来、温泉場の座持であったイヤなおばさん、あの人の最期《さいご》を考えてみると、何から何まで合点《がてん》のゆかないことばかりです。
浅吉さんが死んでまもなく、あの無名沼にイヤなおばさんの死体が浮いていたということ、たしかそれを引き上げて、宿でお通夜があったとか聞いていたが、その時、自分はとても、傍へ寄って、あのおばさんの死面《しにがお》を見る勇気はなく、それに、あんなものは出世前の人は見ないがよいなんて、北原さんあたりも言うたものだから、自分は逃げてしまったが、それからどうなったのか聞きもしないし、聞かせてくれた人もありません。
多分、もう、疾《と》うの昔に人が来て、その死体を引取ってしまったこととばっかり思っていたのに、今日このごろになって、あの死体に行当ろうとは、どう考えても腑に落ちないことばかりです。
人違い――となれば万事は解決するが、一目見ただけのお雪ちゃんの印象で、どうしてもあの人が、イヤなおばさん以外の人であるとは思い直すわけにはゆかないのです。けれども、もし本人であるとすれば、時間に於て著しい錯誤がある。それともすべてが物の怪で、前の晩に、魂魄《こんぱく》がこの土に留まるとか、留まらないとか言って、先生が今晩あたり、この賑やかな平湯の温泉宿の屋の棟あたりにかじりついているのかもしれないと、冗談《じょうだん》を言われたのが、祟《たた》りとなって、イヤなおばさんの魂魄が、自分たちのあとを追いかけて来たのではないか。そうだとすれば早く浮んで下さい。
だが、こればっかりは、争われぬ眼前の事実で、夢だとも、幽霊だとも、思直しようがありません――お雪ちゃんの、はっきりした頭では、もしやと、こんなふうにも想像してみました――
あの時、無名沼の面《おもて》に、おばさんの死体が浮いたことは本当だろうが、それを引き上げようとする間に、水の底へかくれてしまって、そうして今日になって、はじめて探して引き上げることになった。あの冷たい沼の底に、長い間氷詰めのようにされていたから、それであの通り形も崩れずに、そっくり病人の体《てい》で運ばれて行くことになったのかも知れない。ああ多分そうなんでしょう。いずれにしても、あのイヤなおばさんの魂魄だけではない、その肉体とまで前後して、自分たちは行く
前へ
次へ
全41ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング