早く、大八車をおっぽり出して、一目散に逃げてしまいました。
四十三
大八車の上に置き残された宇治山田の米友。多くの人の周章狼狽を解《げ》せないことだと思いました。
熱田の宮の前で喧嘩が始まったということが、忽ちに戦争に変化して、やがて、異国人が押寄せて来た! それ! という叫びで、すべてがあわてふためいて動乱して、我勝ちに走り且つ倒れつつ逃げたのは、甚《はなは》だそのいわれなきことだと思わずにはいられません。
喧嘩にしても、戦争にしても、鬨《とき》の声一つ聞えないではないか。太刀打ちの音も、矢玉の叫びも、何一つ合戦らしい物の響はせず、もとより火の手も上っていない、狼藉者《ろうぜきもの》及び軍兵らの影も形も、一つも見えないではないか。それだのに、戦争! 異国人が押寄せて来た……
時代が少し怯《おび》え過ぎているとは米友は知らない。濃尾地方は地震がありがちの地だから、地震に関聯してそれ異国人、朝鮮人と、魂を浮動させるように出来ているのではないか、とも思いました。
浦賀へ来たペルリは軍艦四艘、人員二千人足らずであったが、江戸へは六百艘八万人と伝わり、京都へは三十万人と伝えられたそうな。彼等の祝砲に驚いて仏壇を背負い出し、彼等が敬礼のために一斉に剣を抜けば、素っ刃抜き[#「素っ刃抜き」に傍点]と思って身構えをし、鉄砲を一組にして砂の上に立てれば、我に油断をさせておいて不意に襲撃するのだと疑い、葡萄酒《ぶどうしゅ》や、麦酒の空壜《あきびん》を海に捨てれば、毒物を流して日本人を鏖殺《おうさつ》するの計画と怖れ、釣床に疲れている水兵を見て異人は惨酷だ、悪事を為したものには相違なかろうが、ああしてつるして置かなくってもよかりそうに、と眉をひそめたり、姿見鏡を見て向うに一人ありと信じ、蝋燭《ろうそく》一梃を貰い受けて、これを分配して家宝にし、多量の水を軍艦に供給してやり、さてこの水をどうして引きあげるかと見ていると、手桶を要求しないで、大きな鉄索を突き出した、こんな大きな鉄索で手桶が縛れるものかと冷笑しているうちに、その鉄索がゴトゴトとして瞬く間に水を艦内に吸い上げてしまったことに仰天して、これ切支丹の魔術なりと叫んだ、といったような驚異と誇張とが至るところ、日本の人心を怯えさせてるようになっているらしい。
ことに、この熱田明神の御剣には、昔から異国人が思いをかけている。一度|高麗《こうらい》の奴に盗み出されたことがあったが、それは神剣の威光で無事戻って来たという奇蹟もある。異国にはよい刀が無いから、日本の神剣を盗みたがる、戦争が始まれば、必ず海からこの熱田へ黒船が侵入して、真先に神剣を奪いに来るなんぞという浮説が、日頃この辺の人心をそばだて、そこで騒ぎがあると朝鮮人! そこで、仏壇を背負い出す手順になったものらしい。
米友には、いつまで経っても、それが解《げ》せないのです。よし異国人が押しかけて来たからといって、こっちが負けるときまったわけのものではなし、いったん気を落着けてから、気を揃えてかかるのが本当だと信じているのに、影も形も見ない先に、仏壇を背負い出すことは、全くいわれのないことだと思いました。
しかしながら、米友が車上にたった一人置去りにされたのみならず、この附近の町内は全く無人の境です。
どうにも仕様がありません。この分では、こうして長いこと待っていたところで、逃げて行った奴は容易には戻るまい。
いつまでも、ここにこうしているのも気が利《き》かない。そうかといって、これを打捨てて自分も走るという気にはなれない。やや暫く思案した後、
「ええ、ままよ……そこいらまで引張ってやれ」
米友は車上から下りて、今まで車上の客となっていた身が、急に車力の地位にかわりました。
四十四
米友は、この無人の境をたった一人で、エンヤ、エンヤと、大八車を引っぱって動きはじめました。
いくら行っても、同様、太刀打ちの音も、矢玉の叫びも、火の手もなにも見えるのではありません。
いずこに動乱の象《しょう》ありや、異国人の襲来ありや、とんとそれは煙も見えないのです。
いよいよ解せないことに思いつつ、この無人の境を、米友はなおもエンヤ、エンヤと、車を引いて行きました。
本来、大八車は代八車で、八人の男によって曳《ひ》かるべきものか、そうでなければ、八人の男の代りに使用せられつつある器具ですから、後世の瀟洒《しょうしゃ》たる荷車よりも、ズッと大柄に出来ていました。それを通常よりは甚だ小柄なる米友が引っぱって行く光景は、かなり可愛らしいものであります。
だが、車力はついに馳《は》せ戻って来ないのです。この分では、それを期待することは覚束ない。
「ままよ、こうして名古屋まで伸《の》しちまえ」
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