米友は大八車を引っぱることを、力に於ては、さして苦としませんから、このまま、ずるずるべったりに、目的地の名古屋城まで、車力に代ってやってもいいと思いました。
この時、米友の引っぱって行く車の後ろの方から一つ、飛ぶが如くに現われたものがあります。
今まで、米友以外には無人の境であったこのあたりに、右の一つが、その空気をかき飛ばしつつ進んで来るのは変っていました。前に向って一心に車を引いている米友には、その影もみえないし、おそらくその物音も聞えないに相違ないが、後ろの一つが、かえって前を行く米友の車に、一方ならぬ怪異を覚えたのでしょう。
この、後ろから飛ぶが如くに現われた一つというのは、女興行師の親方お角さんを乗せた一梃の駕籠《かご》でありました。
ああして、中ッ腹で鳥居前を出かけたのだが、名古屋まで行くのに、駕籠をそんなに飛ばせなくてもいいはずだが、自分の気が焦《あせ》るのではない、駕籠かきそのものが、この空気に怯《おび》えて、そうして、おのずから早駕籠になってしまうのでしょう。
駕籠の中で女長兵衛をきめこんでいるお角さんは、やっぱり事の体《てい》を見すましては片腹痛くしつつあるに相違ない。
喧嘩だ、戦争だ、異国人だ、仏壇を背負い出せということの元のおこりを、一切知り抜いているお角さんには、そのうわっ調子の、薄っぺらの、物影におびえる奴等の胆っ玉のほどが、お気の毒でたまらないのも無理はありません。
本来ならば、皆さん、そんなに喫驚《びっくり》なさるがものはありませんよ、喧嘩ですよ、喧嘩は喧嘩ですけれど、お相撲さんの喧嘩ですから、少し荒っぽいことは荒っぽいもんでしたが、もう済んでしまったんですよ、驚いちゃいけません、ねえ皆さん――とでも言って、大いになだめにかかるべきところなのですが、前に言ったような虫の居所で、今日は特別に――皆さん、大変ですよ、全く……早くお逃げなさいな、神棚でも、仏壇でも背負えるだけ背負って、猫を踏みつぶさないようにして、早くお逃げなさいよ、異国の船が、たった今三万六千ばい入って来たんですよ、それに毛唐人が五億十万人……全くその通りなんだから、お逃げなさいよ――とでも、大きな声で叫んでやりたいような気持でした。
そうして、片腹の痛い思いをしながら、やはりこの無人の境に駕籠を飛ばせて行くと、その行手にたった一箇、傍若無人――事実上無人なのですが――に、悠々閑々《ゆうゆうかんかん》と大八車が進んで行くものですから、あっといって、やや心を強くしました。
やっぱり腰抜けばかりじゃないわ、ああした度胸の据った人もある、車力には惜しい度胸だ、こう思いつつあるお角を乗せた早駕籠が、早くも大八車をすり抜けた途端に、お角は、この悠々閑々たる勇者の面《かお》を見てやりたいと思ってのぞくと、それが見紛うべくもなき宇治山田の米友でしたから、
「おやおや、友さんかエ」
四十五
早駕籠をとめさせたお角が、
「友さんじゃないかエ」
「あっ! 親方」
米友は舌を捲いて、梶棒を控えました。
「友さん、お前、いつ車力になったの」
「ええ、その、ちょっと、都合があるものですから」
「いい御苦労だねえ」
「そういうわけじゃねえんだがね、よんどころなく、つい……」
「そうして、お前、その車を引っぱってどこへ行こうというの」
「名古屋まで行くうちには、車力が追附いて来るだろうと思うんで。そうでなけりゃあ、持主が何とか言うだろう」
「ほんにいい御苦労だよ。それに何だね、ついているのは、穀物に熊の子じゃないの、判じものみたようだ」
「何しろ、親方、車力の奴が、車を置きっぱなしにして逃げちゃったもんだからね、車に乗っかって来たおいらが、車を引くようなことになっちまったんだ」
「おやおや、乗逃げだの、薩摩守だのということはよくあるが、引逃げなんていうのは新しい」
「どうもこれ、打捨《うっちゃ》っても置けねえからね」
「もしお前、車力が戻って来なければ、名古屋までそうして引張って行ってやるつもりかエ」
「どうも仕方がねえ」
「ほんとに、御苦労さまな話だ、まあ、そんなことも功徳になるかも知れない。駕籠屋さん、まあ、ゆっくりやって下さいよ」
とお角が言いました。今まで、自然の勢いで早駕籠のようになっていたのが、これから大八車と押並んで、かなり悠長な足どりをすることを、駕籠屋が余儀なくさせられましたから、
「済まねえね」
と米友が何とつかず詫言《わびごと》を言ったものです。
かくて駕籠と大八車とが押並んで、駕籠の中のキンキンする姐御《あねご》と、大八車の梶棒にしがみついた精悍《せいかん》なる小冠者とが、そぐわない調子を、つとめて合わせながらの物語。
「友さん、そうしてお前、いったい、その荷物は、名古屋のどこのなんというう
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