敵せず、大勢の力士連に引きずられて、ついに鳥居傍まで、地面をズルズル引きずられて行く光景は、物凄《ものすご》いものでした。
鳥居下まで引き出して、そこで、群がって来た大小上下の相撲連三十余名が、件《くだん》の一人のズバ抜けた関取を、打つ、蹴る、なぐる、文字通りの袋叩きです。
お角も呆気《あっけ》にとられてしまいました。相撲連の土俵の上の取組みは、商売だから見ていても壮快を感ずるが、この真剣な暴力沙汰、それが力商売の者――しかも、幕内から三役以上と見えるやからが一団となって、うなりを成して飛ぶ本物の肉弾、今までに見たことのない光景、殺気満々たるすさまじさ。
こちらで罵《ののし》るところを聞いていると、いま袋叩きに会っている大兵の関取は、この一行の東の大関、島川太吉というので、かねて大勢に憎まれている鬱積が、何かの機会でここに爆発し、三十余名の大勢が一つになって、大関一人をメチャメチャに袋叩きという暴行です。
四十二
大関島川はこうして、三十余名の関取連のために思う存分の袋叩きを蒙《こうむ》って、ほとんど半死半生で鳥居の傍にぶっ倒され、動くこともできないでいる。
お角も今まで、いろいろの活劇を見たし、自分も触れもしたけれど、こんな凄まじい騒ぎははじめてです。それは刃物こそ用いないけれども、普通人の十倍二十倍の腕力のあろうという連中の暴行沙汰は、すさまじいことの限りというよりほかは、言いようがありませんでした。
それにしても、大関とまでなっている者が、こうも大勢の気を揃えて憎まれることもあるまいものだ――それも物凄いことだと思ったが、これは手の出しようも、足の出しようもありません。参詣の人々も同様、すさまじがって、みすみす、震え上っているばかりです。そうして、充分に袋叩きを加えて、もう当人が動けなくなっているのを見すまして、加害者側の力士共が、また茶店へ戻って来ようとする時、一方からまた同様の相撲連が十余名ばかり息せき切って走《は》せつけて来るのです。すわ、また喧嘩の仕返しかと見ていると、そうではなく、新たに飛んで来た一行の頭《かしら》は、若駒という西の大関で、変を聞いて仲裁に来たのだとのこと。
この新手が、被害者を介抱する、あとかたづけをする――
騒ぎは大きかったけれど、もともと内輪同士のことであり、斬っつはっつに及んだというわけでもないから、事の落着は存外単純にして、無事に済んだようです。
そうして、これらの連中、大風の吹き去った後のように、いずれへか引揚げてしまってみると、ひとり取残されたようなお角さん、なんだか狐につままれたように思われないでもない。
お銀様はまだ戻って来ない。
迎えにやった庄公も梨の礫《つぶて》です。お角は、ようやく焦《じ》れったがりました。
そうそうはお嬢様にかまっていられない、子供じゃあるまいし。それに今日は、名古屋で行きつき先がきまっているのだから、やがて庄公が、尋ね出してお連れ申して来るに相違ない、ままよ、これから一足先に名古屋へ伸《の》しちまえ、宿について、ゆっくり待ち構えていた方がいい、たまには、こっちが出し抜いてやるのも薬になる――といったような中ッ腹で、お角は、宮の鳥居前から、名古屋へ向けて、駕籠《かご》を飛ばさせることにきめてしまいました。
一方――お角の見た眼前の光景は、あの通りすさまじいものでしたけれど、また存外、簡単に、型がついてしまったようなものですが、しかし、このホンの一場の活劇の新聞が、忽《たちま》ちにして、恐ろしい伝播力をもって、加速度に拡がって行ったことは、如何《いかん》ともすることができません。
熱田の宮の前で、東西の相撲があげて大血闘を起している、死傷者無数、仲裁も、捕手も、手がつけられない、まるで一つの戦争である、なんでも尻押しは、海から軍艦で来た異国人であるそうだ、やがて熱田から名古屋が焼き払われる――この風聞が街道筋を矢のように飛びました。
これは、あながち、根拠の無いことではありません。現に、あの鳥居|傍《わき》の袋叩きの乱闘を一見したものは、たしかに、それほど大きく吹聴すべき根拠はあったのです。それが輪に輪をかけたというだけのもの。
町並、街道筋の驚愕と狼狽――ひとたび、浦賀へペルリが来てから以来、日本人の神経は過敏になり過ぎているようです。物の影に怖《お》じたがる癖がついている。影を自分から拡大して、そのまた拡大した影に、自分から酵母を加えて驚きたがる癖が出来たようです。
熱田の宮前では、今や家財道具のおもなるものを持ち出すの騒ぎになっている。仏壇を背負い、犬猫を蹴飛ばすの混乱になってきました。おりから、このところへ通り合わせた車上に於ける宇治山田の米友と、その車力。
車力と後押しはこの騒ぎを聞くと逸
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