相撲連は、やがてこの茶屋に流れ込んで来たものですから、茶屋の中は相撲取の洪水で、せっかくの小娘も、信心の説明を中止して、その取持ちに走りました。
 かなり広い茶屋は、相撲取でいっぱいになってしまいました。
 さりとて、ここに待合わせているはずのお角さんは、今ここを立つわけにはゆきません。また、お角さんとしても、何も相撲取が来たからって、驚くがものはないじゃないか、憚《はばか》りながら、こちら様が先客なんだから、席を譲ってやる引け目なんぞは、ちっともありはしないのだから、泰然自若として、輪を吹いていましたが、何をいうにも小山のような奴等が、あたり近所いっぱいに立て込んでしまったものですから、お角一人はその中に陥没してしまって、形に於て、その存在を認められなくなったのは癪《しゃく》です。
 自然、店の者たちも、お角さんの方を一向に閑却してしまったのも、悪意あってではありません。
 お角さんとしても、そんなことを気にするような女ではないのですから、相撲の肉屏風《にくびょうぶ》の中に、ほほえみながら、相変らず煙草を輪に吹いてはいたけれども、前後左右に、煙草の煙の出場所さえないくらいですから、さっぱり器量が上らないようになるのが面白くないのです。
「息がつまりそうだねえ」
といって、どのみち、この奴等に場をふさがれたんでは、ここを出た方がましだ……どこか居所換えをして、待合わせることにでもしようか知らと、煙管《きせる》をたばこ盆にバタバタとはたいた時、
「痛いねえ」
 お角さんが、癇癪《かんしゃく》をピリリとさせたのは、いま立て直そうとする自分の爪先を、一人の相撲取のために、軽く踏みつけられたからです。
 軽く踏まれたといっても、相撲のことだから、相当にこたえたのでしょう、お角さんも、多少面白くないところへ持って来ての痛みだから、少し癇強く、「痛いねえ」が響きました。
「へ、へ、へ」
 ところが、その相撲が、お世辞にもお詫《わ》びの言葉が出ないで、ニヤリと笑ってお角さんを見た、その目つきがグット癪にさわったらしい。

         四十一

「人間が一人いるんだから、お気をつけなさいよ」
とお角さんが言ってやりました。ところが、その相撲は、
「へ、へ、へ」
 相変らず、忌味《いやみ》ったらしい薄笑いで、当然出なければならないお詫びを意味した挨拶が、いっこう出て来ないから、
「何が、へ、へ、へ、だい、大きなずうたいをしやがって、頓馬《とんま》だねえ」
 お角さんが、啖呵《たんか》を切ってやりました。これはこの場合、お角さんとして少し癇が強過ぎたかも知れません。
 そう好んで喧嘩を売りたがるお角さんではないのだが、この時は虫の居所が悪かったのです。
「何、何じゃ……わりゃ、頓馬だと言いおったな」
 相撲取が、急に気色《きしょく》を変えました。
 こいつは、あながち取的ともいえない、勉強さえすれば十両ぐらいにはなれそうな奴だが、田舎廻《いなかまわ》りのために慢心したのか、最初からキザな奴だ。
「言ったよ、頓馬と言ったのが悪かったのかえ、人の足を踏んで、御挨拶の一つもできぬ奴は、頓馬だろうじゃないか」
「わりゃ、天下の力士を知らんか?」
 そこで、物争いに火がつきました。だが、この物争いは火花が散るまでには至りません。
 それは、お角さんの気合いが角力取を呑んでしまったというよりは、天下の力士というものが、こうも多数に集まっていながら、一人の女を手込めにしたという風聞が立っては、外聞にはならないのみならず、人気にも障《さわ》るということに気がつかないわけにはゆかなかったからでしょう。
 女というだけに、そこにどうしても優先権があるようです。しかし、また一方から言えば、天下の力士ともあるべきものが、女一人をもてあましたとあっては、外聞はとにかく、この場の引込みがつかないという事情もあるようです。
 お角さんは、それをせせら笑いながら、手廻りのものを押片附けて、待たしてある駕籠屋《かごや》を呼ぼうとすると、この時、店の一方で遽《にわ》かに、すさまじい物争いが起りました。ほんの一瞬間の言葉|咎《どが》めから争いが突発したものらしく、さすがのお角さんさえ、度胆を抜かれて振返ったくらいです。
 見ると、黒縮緬《くろちりめん》の羽織いかめしい、この相撲取の中でも群を抜いたかっぷく[#「かっぷく」に傍点]と貫禄に見えるのを、これも劣らぬ幕内力士らしい十数名が取りついて、遮二無二、これを茶店の外へ引きずり出そうとしているところです。
 これは下っ端の争いではなく、いずれも幕の錚々《そうそう》たる関取連が、腕力沙汰を突発せしめたのだから、事の態《てい》が、尋常よりはずっと大人げなくも見え、殺気立っても見えます。抜群の関取は必死に争うけれども、衆寡《しゅうか》
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