友は畳みかけて、
「それもお前、普通の遺身《かたみ》と違って、生皮なんだろう、それをお前、欲しがって離れられねえというのは人情だろうじゃねえか、人情を無視して、それを引裂こうなんて、どうしても罪だなあ」
 米友が、その怪力で後ろから車の桟を抑えているものだから、前なる車力が、車を引き出そうにも引き出せません。
 そこで、勢い、大勢の者も米友を相手にして、一応挨拶の形をつけねばならなくなりました。
「なあに、畜生のことですから、今はあんなに騒いでも、直ぐに忘れてしまいまさあね、打捨《うっちゃ》っておいて下さいまし」
 こう言って、米友をなだめにかかったが、米友はそれを肯《がえん》じません。
「いまに、忘れるか、忘れねえか、それは熊に聞いてみなけりゃわからねえ、眼前、こうして恋しがるのを人情として、見殺しにするのは罪だあな。その皮をくれてやんな、あんなに欲しがるんだから、皮をあの子熊にくれてやんなよ、いくらのもんでもなかろうじゃねえか」
「へ、へ、どういたしまして、これでなかなか安い品じゃございません、玩具《おもちゃ》にくれてやれるはずのものじゃございません」
「そんなら、おいらに売ってくれねえか」
 米友が、かさにかかって一同を見下ろしながら、買収の交渉を持ち出したものです。

         三十七

 ほどなく、鳴海の宿で、名古屋へ向って行く大八車の上に、上述の穀物の片荷と、その間に四角な鉄の檻と、鉄の檻の中に、いったん縛られた手足を解放された子熊と、その子熊に、しっかりと抱かれた親熊の皮と……それから、鉄の檻をそっくり両股にかかえ込んで、杖槍を荷ったまま車上の客となっている、宇治山田の米友の姿を見出しました。
 前には車力が一人、後ろには後押しが一人、かくして、意気揚々……というほどでもないが、米友は車上で名古屋へ乗込むという段取りになったのは、思うに、さいぜん交渉に及んだ買収の申入れが、順調に成立したものでしょう。
 相当の高価を償《つぐの》うて、あの親熊の皮を買い取って、この子熊に与えてやったものと見なければなりません。
 果してそうだとすれば、いくらで買収したか。こっちに掛引きがないから、先方に多少足許を見られたような形跡はなかったか。そうだとすれば、行きがかり上、値でない値を吹きかけられて、啖呵《たんか》は切ってみたが、さて懐ろ都合のために、四苦八苦をさせられたようなことはなかったか。
 しかし、物事はあんまり見くびるものではありません。米友といえども、多少は道庵よりお給金もいただいていることでもあろうし、今日まで何かにつけての稼《かせ》ぎ貯めというようなものを、本来、酒を飲むではなし、バクチを打つではなし、女に注ぎ込むという風聞を聞かない男だから、相当に貯め込んで、腹巻かなにかにおさめているに違いない。タカが熊の皮の一枚、高かろうとも、安かろうとも、はたで心配するほどに持扱いもしなかったろう。いくらで売りつけられて、いくらで買い取って、それが多少の買い得であったか、全然買いかぶりであったか、その辺のことは、あまり深くたずねないがよいと思う。ただともかく、こうして米友がかなり御機嫌よく車上の客となって、名古屋へ乗込んで行く光景を見れば、事の交渉は、双方の折合いで無事に解決したものと見てよろしい。
 ほどなく、米友は車力に頼んで、一袋の煎餅《せんべい》を買い求め、それを檻の中の子熊に与えることで、我を忘れるの境に入りました。
 そうして行くうちに、この子熊に対する愛着が、ようやく深くなってゆくことは是非もないらしい。
 木曾街道では、獣皮屋《けがわや》の店頭に飾ってあった大熊に見惚《みと》れて、そうして道庵を取逃してしまったことがある。
 この動物を見ているうちに、米友が次第次第に吸い込まれて、憐愍《れんびん》から愛着、愛着から同化、ついに自他の区別を忘却するまでに至るのは、一つは、この獣と関聯して、どうしても無二の愛友であったムク犬のことを、思い出さずにはいられないからです。
「ムクはいい犬だったなあ、いい犬だよ、あんないい犬は、天下に二つとはありゃあしねえ、今はどこにどうしていやがるか」
といって、思わず頭をあげて嘯《うそぶ》いたけれども、眼はやっぱり子熊から離れないのです。
「こいつは、ムクの子かも知れねえ」
 米友になじみつつ、煎餅をかじる子熊の姿を見ると、米友がたまらなくなりました。光るものが一筋、米友の眼尻から糸を引いて来るようです。
 売られて行くんだな、香具師《やし》のところへ……そう思うと、昔の自分たちのことが、身にツマされてきました。お君、ムクもろともに、自分たちは、やはり興行師の手にかかって苦労した覚えがある。あれは売られたんじゃない、救われたようなものだが、やっぱり苦い味はなめさせられた。こ
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