庵先生は、ここにいないのだ。
 影の形に添うが如く、離れてはならない自分というものは、わが道庵先生と全く離れてしまっていることを、身に火のついたほどに米友が感得しました。
 今までとても、道中、しばしば形と影とが相離れた経歴はあるが、それはホンの戯れ、しかも、米友自身は寸暇も責任をゆるがせに感じてはいないのに、道庵先生そのものが、ふざけ[#「ふざけ」に傍点]きっているのだから、責めはこっちになくして、あちらにある。今晩のはそうではない、自分が主動的に責任をおっぽり出して、仮りにも主人をないがしろにしてしまったのだ。
 うむ、あれからあれ、それからこれ――鳴海神社で不思議の婦人に伴われてここへ来て、そうだ、そうだ、自分にとっては全く苦手な女軽業の親方に、ぶっつかって、うんと油を絞られたのは、つい今しがたのことであった。おぞましいこと、疲れがさせたために、こんなに寝込んでしまった。どっちを、どうしたら、いいだろう。親方に断わるのが本当か、これから先生のところへ馳《は》せつけるのが筋道か。
 ともかくも、うっかりこのままじゃいられねえ、全くこうしちゃあいられねえ身の上なんだ、さあ、出かけよう。
 身の廻り、といっても、杖と笠と、ふり分けの小荷物|一対《いっつい》。
 忙がわしく身づくろいしてみた米友には、今の時刻が、夜には相違ないが、夜の何時《なんどき》であるか見当がつきません。見当がつかなくとも、いつもの米友ならば、思い立ったその時を猶予すべくもありませんが、ここは事情の違うことを考えずにはおられません。
 真夜中に飛び出すということは、宿屋へ対しても考えてやらねばならないし、第一、ここを立つには、当然、女軽業の親方お角さんに挨拶をして立たなければならないことになっているのです。もし、間違っても、あの親方に挨拶なしにでも飛び出そうものなら、今後のことが思いやられる。
 宇治山田の米友ほどのものが、タカが一匹の女興行師を、それほど怖れる弱味がどこにあるか。
 行かんとすれば行き、止まらんとすれば止まる自由行動を、未《いま》だ曾《かつ》て何人のために掣肘《せいちゅう》されるほどの負目《おいめ》を持っていない米友が、なぜか、このお角さんばっかりを怖れます。
 王侯貴人をも眼中に置かぬ米友が、お角さんのために、頭ごなしにやっつけられると、一堪《ひとたま》りもなく縮み上って舌を吐くということが、これ大きな不思議であります。
 道庵先生にも、一目も二目も置いているけれども、これは先輩長者としての尊敬から出るので、正義と、理窟の場合には、一歩を譲ることの引身《ひけみ》をも感じていないのだが、お角さんに逢うと、正義も、理窟もなく、無条件で米友がすくんでしまうのは、おかしいくらいです。
 これは前世の悪縁とかなんとか言うよりは解しようがありますまい。蛇と、蛞蝓《なめくじ》と、蛙とが相剋《そうこく》するように、力の問題ではなくて、気合のさせる業。理窟の解釈はつかない宿縁というようなものの催しでしょう。
 とにかく、米友は、やみくもに出発しようとして、お角さんのことを考えると、ポッキと決心が折れてしまい、恨めしそうに、お角さんの方の部屋をながめたが、やがて、くずおれるように下にいて、せっかく、ととのえた旅の仕度を、いちいちもぎ放してしまって、今まで飾り物のようにしてあった宿の夜具蒲団の中へ、有無《うむ》をも言わさずに、もぐり込んでしまいました。

         三十五

 さて、二度目に目が醒《さ》めた時は、しなしたりや、もう日脚が高い。むっくと起きて、そのまま、お角さんの前へ伺候しようとして女中に聞くと、その一行はもう出立してしまったという。
 そうかそうか、悪い時には悪いものだ、グレる時には一から十までグレるものだ、ここでも、みんごと、置いてけぼりにされてしまった。よく、聞いてみると、お角さんは存外、腹を立ってはいなかったらしい。
「あのお客さんも疲れたらしいから、ゆっくり寝かしてお置き。目が醒めたら御飯を食べさせて、わたしたちは先へ名古屋へ行っているから、これこれのところへ、あとから尋ねておいで……」
とこう言って、お角さんが米友のために、充分な好意を残して置いて先発したらしいから、米友もホッと息をつきました。
 米友としては、度胸を据えたようなもので、飯も食い、お茶も飲み、旅装も型の通りにして、上《あが》り框《かまち》から草鞋《わらじ》を穿《は》き、笠をかぶり、杖を取って、威勢よく旅を送り出されようとする時、その出鼻で、またしても一つの悶着《もんちゃく》を見せられてしまいました。
 それは、大八車が一つ、この宿屋の店前《みせさき》についていて、そこに穀物類が片荷ばかり積み載せてあるその真中に、四角な鉄の檻《おり》が一つある。その大八車が、ち
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