し、身をすりつけて、じゃれかかって来る有様は、たしかに自分を他人とは見ないで、なつかしくて、懐かしくて堪らないでやって来た風情《ふぜい》であります。
おそらく、久しぶりで、ムク犬に逢うたならば、あの犬は、これと同じようにして、自分にすりついて来て離れないに相違ないが、これはこれ、ムクでないことは確かで、米友としてはまだ、こうして、夜這《よばい》にまで来られるほどに、熊という猛獣族の中に、馴染《なじみ》をもっているとは思い出されないのです。人違いではないか。だが、子熊の米友を懐かしがり、じゃれつき、すりつき、くいつき、だきつく風情というものが、到底、親身でなければこうはいかない親しみがあり、いよいよこの男を面喰わせてしまいました。
三十三
そのうちに廊下で、人が騒ぎ出しました。
「熊の子がいない、熊が逃げ出した、それ大変だ」
廊下でバタバタして、しばらくあって、
「ああ、ここだ、ここだ、ここの障子が、こんなに破いてある」
「うむ、足あともそこで止まっている」
それがちょうど、米友の座敷。
「御免下さいまし」
「何だい」
「夜中にお騒がせして相済みません、もし熊の子が、これに参ってはおりますまいか」
「来ているよ」
と米友が答えたので、
「左様でございますか、お怪我はございませんでしたか」
「怪我なんぞはしやしねえ、ここ、ここにこんなにしていらあ」
障子をあけて人々がやって来ても、右の子熊は、それらの人々を避けるのでもなく、怖れ走るのでもなく、やっぱり一向《ひたすら》に米友に向って、じゃれついて離れる模様はありません。
今や当惑しきっている米友。入って来た大勢の者は、手取り足取り、この子熊を捕えて、米友のところから引離そうとする。子熊は力を極めて、それに反抗しながら、やっぱり米友にすりつきたがっている。子熊とは言いながら熊は熊の力で、ほとんど大勢がもてあますほどの力で米友のところから、取去ることに反抗します。
米友には、それがどうしてもわからない。可愛ゆい奴には可愛ゆい奴に違いないが、大勢を振りきって、そうして特に自分にばかりなつきたがるこの熊の挙動がどうしてもわかりません。
米友自身に於ても、過去世は知らぬこと、生れて以来、熊に対して特別な恩愛を施してやったという陰徳のほども更に心当りがないのです。そうかといって、自分はまだ、猛獣をもなつき従わせるほどの聖人であるとも考えてはおりません。
米友のこの当惑を別にして、宿の大勢の者はようやくにして、この熊の子を取抑えて抱き上げると共に、米友に向い、
「お騒がせして全く恐れ入りました、つきまして、なおこのうえ恐れ入りますが、どうかそのお敷物をひとつ……」
「この敷物……この皮をかえ?」
「ええ、左様でございます」
「この敷物を持って行くのかえ?」
米友にとっては、今まで自分の体温の幾分を分ち与えたこの敷物、自分のものではないから、よこせといえばやらないとは言えないが、せっかくあたためて寝てるものを、持って行かなくってもよかりそうなものだとの、いささかの不平もないではありません。
その気色《けしき》を見て取ったのか、番頭のようなものが、こう言って申しわけをしました、
「実はその、お敷物の熊の皮は、この子供の親でございまして、それがふとした怪我で亡くなりましたものですから、その皮を剥がして置きますと、争われないことに、この小熊めが、母の皮をよく知っておりまして、これが無いと眠れませんものでございますから、宵のうちも、これを檻《おり》の中へ入れてやろうと存じましたが、あなた様がこの上によっくおよっておいでになりますから、お起し申すもなんで、つい、そのままに致して置きましたらこの通り、檻を破って這《は》い出し、母親の敷皮を慕ってまいりまして、あなた様に飛んだ御迷惑をかけましたような次第で……こちらへお夜具をのべさせて置きましたから、どうぞ、あれへ――その敷皮はひとつ、この子熊めに、お遣《つか》わし下さいませ」
「なあーんだ」
米友がここでもまた、呆気《あっけ》に取られてしまいました。自分になついて来たと思ったのは、飛んだお門違いの己惚《うぬぼれ》――問題は熊の皮だ。
だが、死せる親の皮を慕うて忘れざる子熊の情愛に至って、おのずから考えさせられずにはおられないものがあるようです。
三十四
子熊をつれて行かれて、しばし茫然としていた米友が、急に声を立てて叫びました、
「先生! 先生! おいらの先生」
彼は襖《ふすま》の中を見込んでこう言うと共に、ガバと立ち上ったのは、この時に至って、はじめて意識が全く明瞭になったのです。
そこで、つむじの如く、ここまでの行程が展開してみると、ああ、それそれ、それから、あれ――わが尊敬する道
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