あな」
と言いながら室内を見廻したけれど、うたた寝では毒だと気がついて、あわてて起き直るでもなし、辛《かろ》うじて、自分の寝そべっているところと向う前の隅に、きちんと、寝床がのべられてあり、枕が据えられてあることを、まず見出したもののようです。自分がうたたねをしている間に、宿でやってくれたものだか、自分を起すことを忘れたものか、起したけれども起きないから、そのままにしていたのか、或いはまた、せっかくよく眠っているのを起すのも気の毒だと思っているうちに忘れてしまったのか、それはどうでもいいが、せっかく、用意して待構えていた夜具蒲団に対しては気の毒だと思いました。
 しかし、米友が夢を破られたというのは、単にそれだけの理由ではありません。この男は、例えば、打って叩いても、熟睡から醒《さ》めないほどに眠りに落ちていたからといって、それが身辺に、いささかでも異例をもってこたえて来る場合には、必ず、眼を醒ますように出来ている男です。
 心がけのあるさむらいは、轡《くつわ》の音に眼を醒ますというたしなみが、さむらいではないけれども、米友には、先天か、後天かに備わっているのです。ですから、女中共が親切で起そうと、ゆすぶり[#「ゆすぶり」に傍点]震動させても、ついに呼び起すことのできない場合にも、怪しの者があって、抜き足して近づけば、必ずガバと醒めて、その手がおのずから、首の下にあてがわれた杖槍に届くようになっているのです。
 ですから御覧なさい、半ば無意識で、夢うつつの境にぼんやり眼を据えながらも、その右の手は首の下に廻って、スワといわば、かの杖槍を変化《へんげ》自在に扱い得るように、あてがわれているのです。

         三十二

 果して、この一室へさいぜんから、怪しいものが闖入《ちんにゅう》していたのです。だが、安心あってしかるべし、それは裏宿の七兵衛でもなく、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵でもなし、今し、この室の一方の障子を押破って闖入し、今もうろうろとそこを歩いているのは、一つの真黒な動物でありました。
 半ば以上を、今や三分の二以上といっていいほど意識を取戻した米友は、この真黒い動物に気がつきました。
 その瞬間――猫にしてはズンと大きい、犬にしては丸過ぎる、犬と猫のいずれでもないという印象だけはうつりました。
 犬と猫でないほどのものが、鼠でありようはずはない。犬でなく、猫でなく、鼠でないとすれば、どうしても、これだけの大きさを持ったものは、野獣のうちのいずれかに属しているものでなければならないと、その瞬間に感づいたものですから、米友は、
「こん畜生」
 例によって杖槍は、いつでも自由自在に変化の利《き》く伏せ方にしておいて、ちょっと小首をたてて、睡眼に、その動物を篤《とく》と見定めようとしたものです。
 だが、この際、まだ十分に使用に堪えない睡眼を酷使して、薄ぼんやりした有明の行燈《あんどん》の光で、強《し》いて、その闖入の動物のなにものであるかを見定める労力と、必要とが、無用に帰したのは、件《くだん》の動物が、逸早《いちはや》く米友の腋《わき》の下へ首を突込んで来たからです。
「こん畜生」
と言って米友は、その鼻っぱしを左の手で、かっ飛ばそうとして、はじめてその動物の鼻っぱしの強いことに、一驚を喫しました。
 大抵の動物ならば、よし無雑作《むぞうさ》にとはいえ、米友が「こん畜生」といって刎《は》ね飛ばせば、一応は、相当の距離へケシ飛ばされて、それで、怖れて逃げるか、もう一ぺん狎《な》れて近づいて来るかの手ごたえがなければならないのに、この動物は更に動じないから、米友が、ちょっと面喰った形です。同時に、
「あ、こいつぁ熊だ!」
と米友が叫びました。
 なるほど、そう言われて見ると、熊に違いありません。但し、熊は熊だが、羆《ひぐま》や月の輪ではなく、まんまるく肥った熊の子であります。子熊ではあるけれども、熊は熊に違いないのです。家畜でなくて野獣のうちです。野獣のうちの猛獣に属するものです。しかも、猛獣のうちでも、獅子と虎とを有せざる日本の国に於ては、最強最大の猛獣といってよい種類に属しているものでありました。
「熊の野郎!」
 米友は眼を円くしたけれども、むくむくと肥え太ったこの猛獣の子供を見ると、恐怖よりは可愛らしさの念に打たれないわけにはゆきません。月の輪や、羆の類が襲い来《きた》ったとしたならば、心得たりと、体をかわし、咄嗟《とっさ》には杖槍を七三に構えて、「さあ、かかってみやがれ」と、胆を据えるべき米友も、こんな可愛らしい部類に属する子熊に、じゃれつかれてみると、一応は、びっくりしたが、これを憎み扱う気にはなれません。
 ましてや、この肥え太った動物は、米友の寝ている腋《わき》の下へくぐり込んで、鼻を鳴ら
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