衛でございますよ」
と言って、至りついた老人は、お雪ちゃんの前へ来ると、腰をのばして、反《そ》りを打ち、そこへ突立ってしまいました。
「まあ弥兵衛さん、どうしてこんなところへおいでなすったの」
「はい、わたしは、ここからあんまり遠くないところに住んでいるのでございますよ」
「そうですか、ちっとも知らなかったわ」
「はい、はい」
 お雪は突立っている弥兵衛老人の頭から爪先まで、今更のように極めて興味深く見上げたり、見下ろしたりしていました。
「ほんとうにそっくりよ」
「何でございます」
「弥兵衛さんに、そっくりよ」
「何をおっしゃります」
 どうも、ばつの合わないところがあります。弥兵衛さんが、弥兵衛さんにそっくりだということは、別段、念を押すには及ばないことだろうと思われるのに、お雪には、これは容易ならぬ興味の的であるようです。
 それにもかかわらず老人は、極めて無表情に突立って、背に負うたものを、さも重そうにしていました。
 この空気を見ると、お雪ちゃんと、弥兵衛さんとは全く他人です。曾《かつ》て知合いになっていたのでもなければ、この際頼んだ人でもない、単に呼び名だけが暗合したようなもので、そのほかには、なんらの共通した感情も、理解も、漂うては来ないらしい。
 そこで、お雪ちゃんは、極めて手持無沙汰に、それでも、充分なる興味の眼は弥兵衛老人からはなすことではなく、無言に見詰めていますと、この老人は、さながらお雪ちゃんに興味を以て見つめられているために、ここに現れて来たもののように、どこからでも存分に御覧下さいと言わぬばかりに、いつまでもじっと立ちつくしているのです。そうしているうちに、弥兵衛さんの輪郭が、最もハッキリしてきました。
 何のことだ――これは弥兵衛は弥兵衛だが、只の弥兵衛ではない、平家の侍大将、弥兵衛兵衛宗清《やへえびょうえむねきよ》ではないか。
 弥兵衛兵衛宗清の本物を、お雪ちゃんが、いつ見知っていた? それは申すまでもなく、弥兵衛宗清は弥兵衛宗清だが、それは生《しょう》のままの平家の侍大将ではなく、お雪ちゃんが江戸見物に行った時分に見た、小団次だったか、松助だったか知らないが、その頃の名人役者のした弥兵衛宗清が、義経公のために、「弥兵衛兵衛宗清、暫く待て」と呼びとめられて、ギクッと胸にこたえながら、しら[#「しら」に傍点]を切る弥兵衛さん――最初か
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