、間違いはありません、白馬からの下り道に違いはありません。
 ただ四辺《あたり》の光景が、こんなふうに変ってしまったのは、下り道を間違えたせいでしょう。それにしても、ちょっとも疲れていない自分の身を不思議だと思いました。
 どうも、なんだか、この白い小袖が、鶴の羽のようにふわりと空中に浮いて、白馬の頂《いただき》からここまで、自分の眼は眠っている間に、誰かが、からだをそっと持って来て置いてくれたもののようにも思われ、やっぱりすがすがしい心のうちに、なんとなく暖かな気持で、お雪ちゃんは岩の上に腰をかけて、涯《はて》しも知らぬ大きな湖の面の薄暗がりを、うっとりと眺めつくして、それ以上には、まだ何事をも思い浮べることも、思いめぐらすこともしようとはしません。
 その時鐘が一つ鳴りました。その鐘の音が、お雪ちゃんのうっとりした心を、よびさますと、あたりの薄暗がりが気になってきました時、湖の汀《みぎわ》の一方から、タドタドと人の歩んで来る姿を朧《おぼ》ろに認めたお雪ちゃんは、じっとその方を一心に見つめていましたが、夕もやを破って、その人影がようやく近づいた時、
「あ、弥兵衛さんだ、弥兵衛さんが来る」
とお雪ちゃんが叫びました。
 朧ろながら、それと見えるようになった人の姿は、背に何物かを背負うて、杖をついて、かるさん[#「かるさん」に傍点]のようなものを穿《は》いた一人の老人に紛《まぎ》れもありません。
 その老人は、湖畔をめぐって、お雪ちゃんの休んでいる方へと、杖をつき立ててやって来ましたが、いよいよ程近いところまで来ると、お雪ちゃんがまず言葉をかけました、
「弥兵衛さんですか」
「はい、弥兵衛でござんすよ」
 こちらが弥兵衛さんと呼び、あちらも弥兵衛さんと答えるのだから、これは弥兵衛さんに間違いはありますまい。

         二

 してみれば、お雪ちゃんは、とうにこの弥兵衛さんを知っていて、弥兵衛さんもまた、お雪ちゃんに頼まれるかなにかしていた間柄とみなければなりません。
 しかしながら、白骨へ来て以来の、お雪ちゃんの知合いには、曾《かつ》て弥兵衛さんという人は一人も無いから、これは、このたびの山道に、臨時にやとった山の案内者か、強力《ごうりき》かなにかであろうと思われます。
「わたしは弥兵衛さんだとばっかり思ったら、やっぱり弥兵衛さんでしたわ」
「はい、その弥兵
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